[かんのんさま::メモ]

かんのんさまは南に西に

[梵文法華経/24:かんのんさまの章] に関する「めも」です。

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法華経との関係

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渡海船の帆に書かれた「観音」「南無妙法蓮華経」

「那智参詣曼荼羅」などの絵の中に描かれた渡海船の帆に書かれた文字は どうやら「南無阿弥陀仏」が一番人気らしいです (右の絵だとたぶん「観音」と書いてますよね。 他方ジオラマ(熊野那智世界遺産情報センター)のほうは「南無阿弥陀仏」)。 「かんのんさま」の聖地を目指すのに 「南無阿弥陀仏」なのか‥‥など、いろいろ考えたくなるところなのですが。

 一部の渡海船には以下:

南無阿弥陀仏、妙法蓮華経序品第一、 妙法蓮華経第八‥(略) (根井2008.p.213)
こんな感じで長々とした文が書かれているものもあるそうです。
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この「第八」についてですが、根井2008でも推測しているとおり 「かんのんさまの章」[SAT]だろうと思います。 大正蔵によれば「かんのんさまの章」は「妙法蓮華経」(全七巻)の巻第七[SAT]に含まれていますが、実際に国内で伝わっている「妙法蓮華経」の巻物などを 見てみると、全八巻になってるものも結構あるみたいですし(博物館に行ったら、巻第八を展示しているのを目撃しました)、 坂本・岩本訳注(1967)『法華経(下)』岩波書店. の漢文パート(坂本)を見てみても、 確かに全八巻になってます。そして巻第八は25章・観世音菩薩普門品から始まっています。

 ‥と、それはさておき。「かんのんさま」と「南無阿弥陀仏」の繋がりといえば無論 「無量寿経」的な観音様だろうと 思ってしまいますし、西方浄土を目指す人たちなのでたぶん浄土系の文献を旗印に 掲げてもおかしくないと思っていたのですが。 まさかここで阿弥陀如来と観世音菩薩との関係についての記述が そんなに濃い訳ではなさそうな 『妙法蓮華経』が出てくるとは! 驚き!! ‥という感じではあります。法華経、強いなー。

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「法華経」と渡海の関係

でも、何故ここで妙法蓮華経が出てくるのか。

 豊島1992は「渡海」について以下のように指摘します:

実際には、霊山できびしい山林修行をおこなった山伏・聖が、 修験道のもっとも崇高な実践行である``捨身行''として入水の形態をとったケースが多い。 (豊島修(1992)『死の国・熊野』講談社現代新書, p.163)
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(以下、豊島1992 を参考にしてます)

渡海は「かんのんさまの聖地に行こう!」という試みですから基本的には誰でも渡海にトライしても 良いはずです。しかし実際、記録に残っている渡海挑戦者たちは皆「上人」と呼ばれる人ばかりです。 つまり何かの修行の延長線上というか、おそらく一連の修行の総決算として「渡海」が行われた可能性が高いと 考えられます。 そして。この一連の修行の総決算にふさわしいものとして考えられたのは、それで生命を失ってしまう確率が きわめて高い「入水」とか「火定」「投身」などであったみたいです。 つまり現代的視点では「自殺」になっちゃう行為ですね。 実際、古文献には古代熊野で「捨身」「火定」が行われていた旨の記述があるみたいですし(豊島1992, p.163)、 「奈智山」こと熊野那智の妙法山阿弥陀寺には 「法華行者の応照上人の火生(火定)三昧跡」と される場所が残ってますし。 このような一連の修行の総仕上げの一つの選択肢として「渡海」があったのではないか、ということですね。

 でも。修行の総決算として『入水』とか『火定』とかして何の意味があるのか?? ‥と思ってしまいますけど。 そこで出てくる次のキーワードが「滅罪」です。人は生まれながらにして悪業を背負っていて、余程のことでも ない限り、死後は地獄に一直線‥。と、そんな考え方が一般的 [ 関連: 僕らは餓鬼になるのか? ] でしたから、その悪業を減らして極楽往生を 果たすためには滅罪につながる苦行をかなり行う必要がある、そしてその苦行の最高峰こそが「入水」「火定」で あった、と。つまり現在の生命をそうして終わらせるのと引換に、死後の安心(極楽往生)を獲得しようとしたわけですね。 そんな感じで滅罪の苦行に励む行者たちにとっての心の拠所が「滅罪の経典」と呼ばれる 妙法蓮華経(法華経)であり、一切衆生喜見菩薩(薬王菩薩の前世)であったのでしょう。 この一切衆生喜見菩薩は「妙法蓮華経」の23章「藥王菩薩本事品」に登場してくる人物で、仏に対し

自分の身体を捨てて供養することこそ、 最高最上最善の供養なり [ 梵文法華経::[22] 薬王菩薩の昔 ]
‥との信念のもと、 2度も自分の身体を燃やして仏を供養した人です。

 この「自分の身体を捨てて供養することこそ」という考え方は、あまりに危険すぎて推奨されないものですけど。 当時、自身の滅罪についてかなり本気で悩んでいる人たちにとっては滅罪そして 死後の極楽往生への道筋として必要であったんでしょうね。そして那智が「かんのんさまの聖地」となっていたからか、 いろいろな捨身行のうち「ふだらく渡海」つまり入水による捨身が選ばれるようになっていった、と。‥ そんな感じでしょうか。

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「法華経」にみる阿弥陀仏、極楽浄土

 「法華経」において阿弥陀仏や極楽浄土について言及している部分を紹介しておきましょう。

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法華経24かんのんさまの章

「24:かんのんさまの章」にある韻文部分に以下があります:

[大雑把訳]
 供養うけ 世間主王のもと 法蔵は 長い修行で 菩提を得たが
 観音は 無量光仏に 師事をして 如幻の三昧、 諸仏に供養
 西方に 清き「極楽」 世界あり そこで阿弥陀師 皆を導く
 その世には 女性、交合 ありもせぬ 仏子は生じて 蓮華に座する
 けがれなき 蓮華の内なる 阿弥陀師よ 獅子座で輝く シャーラ王の如し
 三界で 卓越なかた 世間師(観世音)も 福徳積まれ 最勝めざす [ 荻原土田:S-372-014 ]
ただしこの文があるのはサンスクリット本・チベット語訳だけで、 漢訳の『妙法蓮華経』には対応部分がないんですよね。 そういう点で、 何か後から「とってつけた」感じが、すごく、しますね‥。 これ、法華経流布の途中で極楽浄土信仰関係の記述が混入してしまったんでしょうか。

 でも『妙法蓮華経』に対応部分がないということは、つまり、 日本における阿弥陀信仰にこの部分が与えた影響はほとんどない、ということになりそうですね。

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法華経22薬王菩薩の昔

[大雑把訳]
500年の後に、この『薬王菩薩の昔』の章を聞いて修行する女人があれば、 その者は死後 極楽浄土に生まれる。 そこは阿弥陀如来がおられる世界であるが、 そこにある蓮華の中に生まれるのだ。 [ 荻原土田:S-349-012 ]
こちらは『妙法蓮華経』に対応部分があります。‥けど、なぜか「女人限定」な感じに書かれてるのは 何なんでしょうか。

 そして極楽浄土への行き方についてはサンスクリットだと "ata^s cyuta.h"。んー、直訳すると「ここから離れて」的な感じでしょうか。 とくに「死」とは明言されてないようにも見えます。しかしチベット訳では "^si .hphos nas" (to exchange life, to die [DAS])、 『妙法蓮華経』でも「命終」と訳されていることから、 この表現はたぶん「死後」を指す婉曲表現なんだろうと思います。 (チベット訳の ".hphos nas" の語って、いわゆる「ポワ」と同じ単語じゃないですか!)

[次] [註]補陀洛に向かって