[註]補陀洛に向かって
[Table of Contents]註
[Table of Contents]智定坊について
ちなみに智定坊は、もとは鎌倉御家人の下河辺六郎行秀という名前だったものの、
若い頃(18歳?)に下野国那須野でおこなわれた巻狩りで 一頭の大鹿を射損なうという失態から
逐電し出家したのち高野山、そして那智で渡海、というルートをたどったようです
(『吾妻鏡』による)。
他方、智定坊は補陀落山で1221(承久3)年に58歳で病死したとする史料もあるらしく(この史料によれば
行秀の失態は30歳のこととなる)、つまり智定坊については
実在した人物だと考えても、まあ、問題なさそうな感じではあるものの、
それが誰なのか、本当に渡海した人なのか、など不明な点は多いようです。
(参考: 根井浄(1995)「『吾妻鏡』所載・智定坊の補陀落渡海」印度学仏教学研究43-2; pp.138--141.
[PDF])
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[Table of Contents]平家物語
ふと思ったのですが。12世紀(1185)に、西方浄土をめざして入水した有名な人たちが
いますね。壇ノ浦合戦における、安徳天皇と平家一門の人たちです。
『平家物語』によれば:
(略)‥
まづ東に向かひ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させおはしまし、
その後西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に預らんと誓はせおはしまして、
御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて、心憂き境にて候へば、
極楽浄土とて、めでたき所へ具し参らせ候ふぞ」と、かきくどき申されければ、
‥(略)‥
二位殿やがて抱き奉て、「波の下にも都の候ふぞ」と慰め奉り、千尋の底にぞ沈み給ふ。
(
『国語の先生の為のテキストファイル集』 [Link]の『平家物語』)
[大雑把訳] 「まず東にお向かいいただき、伊勢神宮にお暇を申し上げください。
次に西にお向きいただき、西方浄土への往生のためご念仏ください。
この国は粟散辺地というロクでもない場所です。
極楽浄土という、めでたい場所へ参りましょう」と申し上げたのち、
二位殿が(安徳天皇を)抱きかかえて「海底にも都はありまする」とお慰めしながら、
海底に沈んでいきました。」
‥‥
これ、二位殿は「極楽浄土とて、めでたき所へ具し参らせ候ふぞ」
「波の下にも都の候ふぞ」と言って入水したことになっています。
これが史実かといえばちょっと、いや、かなり微妙なはずで、
誰が二位殿と安徳天皇の会話を聞いて伝えたのか‥なんて考えてみると、
この会話の内容は 史実でなくストーリーを盛り上げるための創作と考えるのが
自然だという話になるとは思うのですが。でも「極楽浄土をめざして入水」
「海底に都」など、このページ的に ちょっとグッとくる要素はありますよね。
‥でもやっぱダメか。動機がアレですからね。入水せざるを得ない状況が先にあって、
その言い訳としてこれらの話題を出てるようにしか読めませんしね。
だからだと思うんですけど、私の印象では、二位殿は極楽浄土と海底の都のどちらにも
行けると思ってないだろ、それじゃダメだろ、というのが正直なところです。
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[Table of Contents]井上靖(1961)「補陀落渡海記」の金光坊(1565)
井上靖(1961)「補陀落渡海記」で描かれる金光坊(1565年)の様子も、
井上氏自身の渡海観がそのまま入っていて、自殺的なものとして位置づけられていますね。
「現世の生を棄て、観音浄土に生れ変ろうという熱烈な信仰」「熊野の浦から海上に浮ぶことは、
勿論海上に於ての死を約束するものであった。‥(略)‥南方はるか補陀落山を目指して流されて行く。
流れ着くところは観音の浄土であり、死者はそこで新しい生命を得てよみがえり、永遠に
観音に奉仕することができるのである。」(井上靖全集6.,p.218)
なお、この小説における金光坊は、本人は漠然と「そのうち‥」と思うだけだったのに、
周囲からの熱烈なプレッシャーに押されるような形で、
かなりムリムリと渡海させられるハメになって‥というストーリーなのですが。
この小説を読んでいると、東北地方、山形県庄内地方の出羽三山(湯殿山)の「即身仏」のことを
思い出してしまいます。出羽三山には数多くの「即身仏」(大日坊、注連寺など)があることが
知られていますが、何故こんなにこの地域に多いのか。
こうした上人たちは、真言宗の開祖弘法大師に
あやかって、生きながらミイラとなって浄土への再生を願った尊い存在とされている。
たしかにそのとおりなのであろう。‥(略)‥彼らが入定したのは、東北が激しい飢饉に
襲われたときであった。つまり、彼らはこの地方の人びとの災厄を「能く除く」ことを
願って、ときには人びとに乞われるようなかたちで「人柱」として入定していったのであろう。
いや、真相はもっと過激であったかもしれない。人びとは乞食や殺人者をかくまい、寺に入れて
上人に仕立てて祀り上げ、内心いやがっている上人を、それと知りつつ、入定へと追いやって
いったのではなかろうか (小松和彦(2002)『日本魔界案内』,光文社. pp.261--262.)
この小松2002の推測はとくに根拠あるものではなく、また、ひょっとしてこの推測が
井上「補陀落渡海記」の影響を受けてる可能性もありますので、
あまり真に受けすぎるのも良くないと思いますが。
でも「周囲からのプレッシャーでやむなく」という図式は、現代に生きる
我々からすると じつに納得しやすい図式だよなー、と思ってしまいました。
実際、どうだったんでしょうかね。
(小松和彦2002の湯殿山即身仏人柱説に影響を与えたかも?という点では、
井上靖よりも森敦(1974)『月山』のほうかもしれないですね。『月山』が手元にないので
うろおぼえですが、行き倒れの「やっこ(乞食)」を燻製にしてミイラに仕立てて‥という、
村人の話も出てきますから‥。(ただし地元ではそれは否定されてるはず。))
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