[かんのんさま::メモ]

かんのんさまは南に西に

[梵文法華経/24:かんのんさまの章] に関する「めも」です。

[前] [註]補陀洛に向かって

南か西か‥

果たして観音様は西におられるのか、南におられるのか。 正直言って「無量寿経」も「華厳経」もどちらも非常に重要なテキストですので、 どっちが合っててどっちが間違ってるかなんてことは考えられないことです。 これについて 昔の人たちは、どのように考えたんでしょうか。

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天台大師 (中国・隋,8c末)

天台大師は『請観音経疏』で『請観音経』による請観世音懺法を修したといわ れているが、そのやり方を簡単に述べてみよう。‥(略)‥
 南向きに観音像を安置するのは、観音の住処が南方光明山であるからである。‥(略)‥ 楊枝浄水を供えてから、西方に向かって、五体投地し、一心頂礼本師釈迦牟尼世尊 以下諸仏の名を唱え、さらに「一心頂礼観世音菩薩摩訶薩、一心頂礼大勢至菩薩摩訶薩」 と唱える。次に三度三宝の名と観世音の名とを唱え、つぎに合掌して偈文を説き、三つの 呪文を唱え終って懺悔発願し、楊枝浄水の壇の周囲を廻るのである。最後に『請観音経』 を唱えてこの作法は終わる。 (鎌田1997. pp.113--114)
観音像は南向きに安置、 「一心頂礼観世音菩薩摩訶薩」と唱えての礼拝(五体投地)は西方に、という感じです。 五体投地を西方にということは、やっぱ本命は西方ということですかね。 それなのに観音像を南方に置くというのは、やっぱ、 「西方浄土は阿弥陀仏の仏国土であり観音様はいわば脇役。だから西方ではなく 南方」という判断があったんではないでしょうか。

 ちなみに天台大師は臨終の際に「観音来迎し給う」と述べ、西方に向って端座して 往生された、という伝説があるようです(鎌田1997. p.115)。これやっぱ、 観音様は(阿弥陀仏とともに?)西から来迎されて、(天台大師とともに)西に帰ったと いうことになってますよね? んー。南方て何なんでしょうね。 卑近な喩えを使えば「職場は西方で自宅は南方」的な感じなんですかね?

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解脱上人 (13c)

解脱上人貞慶(1201)『觀音講式』のところどころに、 西方極楽と補陀洛についての記述がありますので、そのあたりに関する私の 大雑把訳から紹介させてください。

(観音様が仰せの)「我が浄土」とは、遠くは西方極楽、 近くは補陀洛山。その山は、ここから西南の方角、 大海の中にある。(『觀音講式』[067]-125, [065]-105)
臨終のときは観音の蓮台に乗ってちゃんと往生し、 ずっと阿弥陀の浄土に居たい。修行不足で すぐ往生できないなら、補陀洛山に生まれないと。([065]-95,[067]-143)
西方極樂、補陀落山也」([065]-105)と いうのは、単純に物理的な距離というだけでなく。 「往生有滯者、先可住補陀落山」([065]-96)とあるように気安さ、往きやすさという点での 近さでもあったようですね。この考え方がMade in JapanなのかMade in Chinaなのかは 現状では私にはわかりません。 (書きかけ)

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補陀落渡海と かんのんさま

日本では16世紀頃を中心にして、 「補陀洛渡海」という風習がありました[こちら]。 この「補陀洛渡海」絡みでの南・西問題について。

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高海上人 (常陸国,16c)

 『那珂湊補陀洛渡海記』という書物があります。これは、 16世紀の常陸国(現在の水戸近辺)にいた高海上人という人の 補陀洛渡海の様子を描いた書物なのですが。この書物の中に、以下のような記述があるようです:

仮屋(道場)には本 尊が安置され、安養の九品(阿弥陀の西方浄土)と補陀洛(観音の南方浄土)の九峰を表す ように造られ、幡蓋が掲げられていたという。『那珂湊補陀洛渡海記』は「良に以れは品 と峰は、西南(西方浄土と南方浄土)に異なりと雖も、数の字(九品と九峰)両国倶に同じ なり。知ることを得たり、補陀安養は一国の異名、弥陀観音は一仏の因果なり」と説明す る。巧みな教義説明である。 (根井浄(2008)『観音浄土に船出した人びと』吉川弘文館. p.114)
西方(安養)浄土には「九品(くほん)浄土」という別名があり、 また南方補陀洛には9つの峰(由来不明。華厳経にはそういう記述はないはず)がある。 方角は違うけど、どっちも同じ数字「9」だし。 それに 補陀洛も安養(西方浄土)もどっちも同じ浄土だし、 阿弥陀様も観音様もどちらも同じ仏菩薩様なんだから、どっちに着いても大丈夫だよ ‥‥という感じなんでしょうか。 (「一国の異名」をそのまま解釈すると「同じ国を指す、二つの名前」という意味になりますし、 「一仏の因果」も「同じご存在の、仏になる前と後」という意味になる[*1]‥のでしょうけど、 そのへんをちょっとボカして解釈してみました。)


*註1
「解脱上人貞慶と海住山寺の十一面観世音菩薩」[URL]で、苫米地誠一氏は 貞慶の『観音講式』(1201)について言及しながら 以下のように述べています:
もともと観音は三十三身に姿を変じて衆生を救う大慈悲の菩薩とされるが、 また阿弥陀如来の脇侍としても祀られ、阿弥陀如来の一生補処の菩薩 (次に阿弥陀如来になる菩薩)とされ‥(略)‥ 即ちここには阿弥陀と観音とを一体とする信仰と、観音と共に 菩薩行を修行しようという誓願とが見られる。
そこでいう「阿弥陀と観音を一体とする信仰」の流れは、ここでの「一仏の因果」の 中で、つまり16世紀 常陸国の高海上人の中に、確かに生きてますよね。
 この、阿弥陀と観音を一体として「阿弥陀如来の一生補処の菩薩(次に阿弥陀如来になる菩薩)」と 位置づける信仰は 「觀音者極樂之補處也(大雑把訳:観音は極楽の補処だ)」(『觀音講式』[067]-142./[065]-93)に出ている、という 理解でよいんでしょうか。つまり、ここでの「極楽」は「阿弥陀」ということ? (‥いまいち自信がない)
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宣教師は見た (伊予国,16c)

上記とほぼ同じ時代に 宣教師ルイス・フロイスが伊予国堀江で1565年に実際に 見聞した、以下のような話があります:

彼等が期待して いた阿弥陀の光栄に入ることを長く猶予することはできず、速に行きてこれを求めん といい、‥(略)‥ 一艘の新造船に乗り、頸、 腕、脚、及び、足に大きな石を縛し、 ‥(略)‥ 彼等は海上に漕ぎ出て、 親戚友人は船に乗ってこれに随い、再 び彼等と訣別する。海岸を離れること 小銃の着弾距離の三、四倍の所に一人 ずつ深き海、むしろ地獄に投身した。 追従した人々は直に空虚なる船に火を 附けた。けだし、これに乗って航海す る価値のある者はもう無いからである。 (根井2008. pp.168--169)
ここでの注目ポイントは「彼等が期待して いた阿弥陀の光栄に入ることを長く猶予することはできず、速に行きてこれを求めん といい」という部分です。根井2008はこれを「阿弥陀の西方浄土に往生することを 待ち切れず、より間近に現存すると認識されていた補陀落浄土での再生を求めたのだという」(p.171)と 解説しています。なるほど。 ‥個人的には「現存すると思っていた」のなら何故入水するのか?とも思うのですが、 それはさておき。

 直接西方浄土に向かうのではなく、『かんのんさま』つながりで南方(?)補陀洛山を経由して、 しかる後に西方浄土に行こうかな、といった感じということですかね。 西方が本命だけど、南方(?)も西方に繋がる通路になっている、と。 このへんもやっぱ解脱上人の「ずっと阿弥陀の浄土に居たい。修行不足で すぐ往生できないなら、補陀洛山に生まれないと」(大雑把訳.[065]-95,[067]-143)と 同じ流れですよね。

[次] 地獄に観音様(中国・清初)