[かんのんさま::メモ]

かんのんさまは南に西に

[梵文法華経/24:かんのんさまの章] に関する「めも」です。

[前] 補陀洛に向って‥(1)

補陀洛に向って‥(2)

補陀洛渡海の内容が、第三者的に見て「入水自殺」的にしか見えないパターン。 正直言って、この行動は私には理解できないんですよね。 海の向こうを目指さない「渡海」って何だよ、と。

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宣教師は見た

宣教師ルイス・フロイスが伊予国堀江で1565年に実際に 見聞した、以下のような話があります:

彼等が期待して いた阿弥陀の光栄に入ることを長く猶予することはできず、速に行きてこれを求めん といい、‥(略)‥ 一艘の新造船に乗り、頸、 腕、脚、及び、足に大きな石を縛し、 ‥(略)‥ 彼等は海上に漕ぎ出て、 親戚友人は船に乗ってこれに随い、再 び彼等と訣別する。海岸を離れること 小銃の着弾距離の三、四倍の所に一人 ずつ深き海、むしろ地獄に投身した。 追従した人々は直に空虚なる船に火を 附けた。けだし、これに乗って航海す る価値のある者はもう無いからである。 (根井2008. pp.168--169)

ここで私が「えっ?」と思ったことといえば。 補陀洛渡海船に乗り込んだ人たちは、陸地にいるフロイスが直接目視で確認できる 程度の沖合いで入水(自殺)を行ってしまっていますよね。 「船とともに沈没」どころか、一人ずつ海中に身投げしちゃっています。 つまり、ちょっと沖合に出た程度のことしかしていない、 「南方」補陀洛にちょっとでも近づこうとする気がない、ということです。

 端から見てると、単なる集団入水自殺にしか見えないですよねこれ。

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「南方」に向かわない渡海

でも、どう見ても南方を目指しているとは思えない「補陀落渡海」も 結構あったようなのです。

 根井2008.も「驚くことに (p.149)」と書いていますが、 山陰地方の出雲国でも補陀落渡海が行われていたようです。この場合、普通に考えれば 渡海船は日本海沿岸から北へ、あるいは北西へと出て行く感じになると思うんですが、 こうなると最早「南方」補陀洛とはいったい何なのか、渡海とは何なのか、という話にも なりかねない事例ですよね。 この背景について根井2008は「日没の夕陽が美しい」ゆえ、海の向こうに 浄土が想定できたのでは、と述べています(p.149)が、確かにそうとしか解釈できないですよね。 でもそうなると補陀落渡海船というより 西方浄土渡海船という感じになるんでしょうが、 「西方浄土はあまりに遠すぎて船なんかで行けるわけない」ということは知られている はずですから、そのへんちょっと補陀落を絡めてお茶を濁してみた感じなんでしょうか。 (しかし。渡海の本場・那智海岸は東に面しているため、日没の夕陽は山の中に沈んでいきます。んー)

 また 1568(永禄11)年、下野国の弘円上人が肥後国高瀬の海岸から補陀落渡海を決行した際には 「土船ヲ造リ、松ノ木川ニ浮ベシニ、直ニ沈没セシカ」という状況だったとのことです(p.137)。 土船‥。 これ、「渡海」という名目になっているので船には乗るけど、 あくまでそれは名目にすぎず、目的は完全に「入水」になってますよね。 彼らはいったい何処に、どうやって行こうとしていたんでしょうか。 単純に、ここじゃない何処かへ行こうとしていた?

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「ふだらく」は何処に

ピレラ書簡(1562)には、観音の所在について以下のように書いてあります:

日本人には国が多数あるように天国も多数有る。各其サント(聖人)を有し、此世に於て彼を 信奉したる者を集めようと考えている。彼等の云う所によれば、天国中、海水の下に在るもの がある。右の人の行かんと欲するのはここであり、其サントはカノン(観音)と称し、‥(略) (根井2008. pp.165--166)
「「かんのんさま」は海水の下にある天国におられる」‥これは渡海イコール入水という 事象に基づいて宣教師たちがそう推理したのか、あるいは、渡海する人たちが ハッキリとそう口にしたのかがよくわからないんですけど。 でも、いずれにせよ、何故に入水のときに身体や船に大きな石を 結びつけるのか、また自力では絶対外には出られないような状況にして穴あきの船に乗り込むのか、 また場合によっては船の材質を土にするのか‥‥これらのことを考えてみると、 彼らは補陀洛が海の彼方じゃなく海の底にあると考えていたんじゃないかとした方が 納得できますよね。

 この「海の中」という解釈については、 前のページで、貞慶の『値遇観音講式』(1209)を紹介しました[URL] が、 同じ貞慶の『観音講式』 [Link]の中に以下:

彼山者、自此西南方□大海之中 // [大雑把訳] その山は、ここから西南の大海の中にある ([観音講式 067]-127)
このような表現があります。 『値遇観音講式』の場合、大海原の中にその山がポツンとあるようなイメージを受けるのですが、 この『観音講式』の「大海之中」という表現はそのへんちょっと あやふやな感じがあって、 海中にあるとも取れますよね。そんな感じで、当初は「海に囲まれてポツンと」だったのが、 やがて別の解釈(海中・海底説)も出てきていたということなんでしょうか。

 なお、先の「海の向こうを目指す」渡海(13世紀頃)と比較すると、こちらの入水(自殺)グループの渡海の 事例は16世紀が多い、つまり時代が後になるほど入水(自殺)率が上がってきているように思えます[*1][*2]

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