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補陀洛渡海の内容が、第三者的に見て「入水自殺」的にしか見えないパターン。 正直言って、この行動は私には理解できないんですよね。 海の向こうを目指さない「渡海」って何だよ、と。
[Table of Contents]宣教師ルイス・フロイスが伊予国堀江で1565年に実際に 見聞した、以下のような話があります:
ここで私が「えっ?」と思ったことといえば。 補陀洛渡海船に乗り込んだ人たちは、陸地にいるフロイスが直接目視で確認できる 程度の沖合いで入水(自殺)を行ってしまっていますよね。 「船とともに沈没」どころか、一人ずつ海中に身投げしちゃっています。 つまり、ちょっと沖合に出た程度のことしかしていない、 「南方」補陀洛にちょっとでも近づこうとする気がない、ということです。
端から見てると、単なる集団入水自殺にしか見えないですよねこれ。
[Table of Contents]でも、どう見ても南方を目指しているとは思えない「補陀落渡海」も 結構あったようなのです。
根井2008.も「驚くことに (p.149)」と書いていますが、 山陰地方の出雲国でも補陀落渡海が行われていたようです。この場合、普通に考えれば 渡海船は日本海沿岸から北へ、あるいは北西へと出て行く感じになると思うんですが、 こうなると最早「南方」補陀洛とはいったい何なのか、渡海とは何なのか、という話にも なりかねない事例ですよね。 この背景について根井2008は「日没の夕陽が美しい」ゆえ、海の向こうに 浄土が想定できたのでは、と述べています(p.149)が、確かにそうとしか解釈できないですよね。 でもそうなると補陀落渡海船というより 西方浄土渡海船という感じになるんでしょうが、 「西方浄土はあまりに遠すぎて船なんかで行けるわけない」ということは知られている はずですから、そのへんちょっと補陀落を絡めてお茶を濁してみた感じなんでしょうか。 (しかし。渡海の本場・那智海岸は東に面しているため、日没の夕陽は山の中に沈んでいきます。んー)
また 1568(永禄11)年、下野国の弘円上人が肥後国高瀬の海岸から補陀落渡海を決行した際には 「土船ヲ造リ、松ノ木川ニ浮ベシニ、直ニ沈没セシカ」という状況だったとのことです(p.137)。 土船‥。 これ、「渡海」という名目になっているので船には乗るけど、 あくまでそれは名目にすぎず、目的は完全に「入水」になってますよね。 彼らはいったい何処に、どうやって行こうとしていたんでしょうか。 単純に、ここじゃない何処かへ行こうとしていた?
[Table of Contents]ピレラ書簡(1562)には、観音の所在について以下のように書いてあります:
この「海の中」という解釈については、 前のページで、貞慶の『値遇観音講式』(1209)を紹介しました[URL] が、 同じ貞慶の『観音講式』 [Link]の中に以下:
なお、先の「海の向こうを目指す」渡海(13世紀頃)と比較すると、こちらの入水(自殺)グループの渡海の 事例は16世紀が多い、つまり時代が後になるほど入水(自殺)率が上がってきているように思えます[*1][*2]。
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