[かんのんさま::メモ]

かんのんさまは南に西に

[梵文法華経/24:かんのんさまの章] に関する「めも」です。

[前] 「かんのんさま」に向けて南へ

補陀洛に向って‥(1)

補陀洛渡海の内容が、第三者的に見て「未知への冒険」的に思えるパターン。 これについては確かに無謀だとは思いますが、 まあ理解できる行動ではありますよね。

[Table of Contents]

覚心の失敗

覚心(13c)の伝記のひとつ『法燈国師縁起』(16c初頭)によれば、 入宋した覚心が帰朝する船の中で夢を見たんだそうです。 その夢は「お告げ」であり、そこで覚心は千手千眼観音から南方海上にある 補陀落世界への渡航の方法を聞き出した、と。そして

 その後、観音から教えられたように修行し、順風に任せて船に乗り、七日七夜を経たが 那智滝本に来てしまった。これは修行が不足しているのであろうと思い、何度も渡海をこ ころみたが満足しない。同じことを繰り返すこと七度に及んだ。 (根井2008. pp.193--194)
七度繰り返したということは、つまり、16世紀によくある、第三者からすると 入水自殺にしか見えないような「渡海」ではなく、マジに海の向こうに行こうとしていた、 ということですよねこれ。

 ここで「7日経過した後に、那智滝本に来た」というのはちょっと注意が必要かも しれませんね。海岸から海を目指したら、なぜか海岸の反対、 那智側を遡上して那智滝のところに着いてしまった、ということですからね。 いくら何でもその遡上は自然現象ではあり得ないですよね。そのへん、 千手千眼観音の超自然的な力が働いたとしか言いようがない話になってますから、 私がイメージする「普通に船漕いで行ったら、偶然すげー場所に着いちゃった」とは やっぱり違うんでしょうかね。んー。

 ただこの伝記は、当の覚心の没後200年ほど経過した後の16世紀(室町後期)に 成立したものであること、補陀洛渡海が最も盛んな時代および場所で伝記が成立していること、 史実として覚心は渡海して行方不明という最期ではないこと、などの要因で 「渡海した」としても戻ってきてくれないと(すでに周知な)史実との辻褄が合わなくなるので 仕方なく戻ってきたことにした、という側面はありそうですけどね。

 なお覚心についてもうすこし書いておくと。

中世から近世にかけて紀伊国の臨済宗法燈派の 勢力は強く、特に熊野地方には興国寺の末寺が多く存在した(根井2008.p.192)
そしてその臨済宗法燈派の開祖であり、 興国寺(和歌山県由良町; 1258年開山)の 開山ともなったのが法燈円明国師の覚心その人であったのです。 つまり、補陀洛渡海が盛んだった地域時代にあるお寺の多くが この覚心の流れに 属しており、それゆえ 史実はどうだったかはさておき、 (自分たちが属する宗派の開祖である)覚心師 と渡海とを何らかの形で 結びつけたいという需要がそれなりに強く存在していたことは確かだと思います。

[Table of Contents]

日秀の失敗

16世紀に渡海しようとして失敗した人の中に、 日秀上人という人がいます。

十六世紀初頭に熊野の那智海岸から補陀落渡海をこころみ、下から突 き上げる波に揺られながら沖縄に漂着した僧があった。日秀上人で ある。 (根井2008, p.82)
熊野から出発した日秀上人は 沖縄の金武に漂着したのち観音寺を建立し、 まずは沖縄、そののち鹿児島で各地の寺社再興に取り組む生涯を送ったようですが。 ここでのポイントは「渡海を試みたが失敗、沖縄に漂着してしまった」という 点ですよね。渡海の際の様子としては『慶長見聞録案紙』には以下:
日種上人も那智浦より うつほ舟を作り、外より戸を打付させ、風に引かれて七日七夜ゆられて、琉球国 流寄る。 (根井2008, p.86)
このように書いてあるそうですけど。 どこかに本当に行く気がなければ、途中で沈没するつもりだったら、一週間漂流しても大丈夫な 舟なんて用意しないと思うんですよね。ということはたぶん、 これはマジで補陀落に行く気だったが残念、失敗してしまった、ということじゃないでしょうか。 (なお「うつほ舟」については[こちら])

 実は渡海船の船底には穴が開けてあった(そして頃合をみて船を沈没させるはずだった)けど、 ちょうどその穴を鮑が塞いで沈没しなかったという伝説もあるようですし、その 日秀上人を救った鮑が霧島市の資料館にあるらしい(p.104)ですけど。たぶんそれって、 後代の人たちが「渡海船は すぐ沈没するのが普通だから」という常識に基づいてつくった 物語なんじゃないかと妄想してしまいますけど‥。

[Table of Contents]

成功したかもしれない上人

『吾妻鏡』によれば、智定坊の補陀落渡海(1233)の際には 「三十日ほどの食物、併びに油等を僅かに用意」していたそうです(根井2008.p.206)。 智定坊は戻ってはこなかったので補陀落に到達できたかどうかは不明なのですが、 30日分の食料を持っていたということは、何とか南方補陀洛にたどり着きたい気持ちが あっての出航ということですよね[*1]

 また鴨長明『発心集』(1215?)の「或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事(3-5)」にも、 讃岐の三位という人の乳母の夫の入道 が補陀落渡海を試みた話[大雑把訳]があります。 時期については文中に「近く」とありますので、たぶん1200年頃の話なんだろうと思われます。 この入道、意識がシッカリしているうち往生したいと考えて まずは「身燈」を試みますが、 でも極楽に往生してもなー と思い直し、

補陀落山こそ、此の世間の内にて、 此の身ながらも詣でぬべき所なれ。
つまり、極楽に生まれ変わるよりも、 この身のまま行けるところに行く! と決心し、操船術を身につけ、北風が強まるのを待って 出航してしまいます。その後どうなったのかは不明だが、並々ならぬ決意があったので きっと補陀落山にたどり着いたのでは‥。そしてこの入道の試みは、 1000年頃に賀東聖という人が同じ感じで渡海したのを手本にしたのかな、という 内容の話なのですが。ここでは入道が 南方補陀落をマジで目指していたことはハッキリしてますよね。また南方補陀落を 目指すのは「この身のまま行ける」から、とハッキリ書かれている点も大事です。 結果として高確率で(第三者的に見ればほぼ100%の確率で)落命するけれど、 本人としては死ぬつもりは更々なく、補陀落に行く気マンマンなわけです。 (三木紀人校注(1976)『方丈記 発心集』新潮社. pp.137--138.)

 なお、こちらのグループ、つまり「南方補陀落にマジで行こうとしている渡海」の事例は 日秀上人の例が16世紀初頭であるのを除けば、ほとんどの事例は13世紀頃のものとなっています。 しかし一見 当然のことのように見える「南方補陀落にマジで行こうとしている渡海」は、 時代が下がってくるとあまり見かけなくなるのです‥。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

死の国・熊野 [ 豊島修 ]
価格:629円(税込、送料無料) (2017/9/7時点)


[Table of Contents]

でもやっぱ自殺では?

このように、初期に「渡海」した人たちの伝説を見てみると、彼らは本気で「この世界のどこかにある『ふだらく』」を 目指して出航したのでは? と思えたりするのですが。

 もちろんそれにはかなりシビアな反論があったりします。

しかし信仰の力とはいいながら、専門の船頭や水夫なしにはこうした航海ができないこと は言うまでもない。そうすると補陀落渡海というのは、当然、補陀落世界にあこがれて船 出して死ねば、その霊魂は観音の浄土に往生することができる、という信仰であっただろ う。 (豊島修(1992)『死の国・熊野』講談社現代新書, p.155)
がーん!! (@_@;

 ぐ、ぐうの音もでない‥。

 豊島1992は、古代からある海上他界と水葬の風習(p.200のへん?)、 そして滅罪を目指す苦行のひとつ「捨身」の一形態(焼身のパターンもあった)(p.193のへん?) などが「渡海」と関係してるのでは? のようなことを指摘していて、 なるほどと思いつつも、いまいち消化しきれてないです(^_^; (「滅罪」については [ 僕らは餓鬼になるのか? ] をどうぞ。 人は「宿業」によって生まれつき死後の地獄行きは決まってる と考えられてたみたいで、 それゆえ宿業をいかに滅して極楽往生を目指すべきか、というのが大きな課題になっていたようです)

[次] 補陀洛に向って‥(2)