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補陀洛渡海の内容が、第三者的に見て「未知への冒険」的に思えるパターン。 これについては確かに無謀だとは思いますが、 まあ理解できる行動ではありますよね。
[Table of Contents]覚心(13c)の伝記のひとつ『法燈国師縁起』(16c初頭)によれば、 入宋した覚心が帰朝する船の中で夢を見たんだそうです。 その夢は「お告げ」であり、そこで覚心は千手千眼観音から南方海上にある 補陀落世界への渡航の方法を聞き出した、と。そして
ここで「7日経過した後に、那智滝本に来た」というのはちょっと注意が必要かも しれませんね。海岸から海を目指したら、なぜか海岸の反対、 那智側を遡上して那智滝のところに着いてしまった、ということですからね。 いくら何でもその遡上は自然現象ではあり得ないですよね。そのへん、 千手千眼観音の超自然的な力が働いたとしか言いようがない話になってますから、 私がイメージする「普通に船漕いで行ったら、偶然すげー場所に着いちゃった」とは やっぱり違うんでしょうかね。んー。
ただこの伝記は、当の覚心の没後200年ほど経過した後の16世紀(室町後期)に 成立したものであること、補陀洛渡海が最も盛んな時代および場所で伝記が成立していること、 史実として覚心は渡海して行方不明という最期ではないこと、などの要因で 「渡海した」としても戻ってきてくれないと(すでに周知な)史実との辻褄が合わなくなるので 仕方なく戻ってきたことにした、という側面はありそうですけどね。
なお覚心についてもうすこし書いておくと。
[Table of Contents]
16世紀に渡海しようとして失敗した人の中に、 日秀上人という人がいます。
実は渡海船の船底には穴が開けてあった(そして頃合をみて船を沈没させるはずだった)けど、 ちょうどその穴を鮑が塞いで沈没しなかったという伝説もあるようですし、その 日秀上人を救った鮑が霧島市の資料館にあるらしい(p.104)ですけど。たぶんそれって、 後代の人たちが「渡海船は すぐ沈没するのが普通だから」という常識に基づいてつくった 物語なんじゃないかと妄想してしまいますけど‥。
[Table of Contents]『吾妻鏡』によれば、智定坊の補陀落渡海(1233)の際には 「三十日ほどの食物、併びに油等を僅かに用意」していたそうです(根井2008.p.206)。 智定坊は戻ってはこなかったので補陀落に到達できたかどうかは不明なのですが、 30日分の食料を持っていたということは、何とか南方補陀洛にたどり着きたい気持ちが あっての出航ということですよね[*1]。
また鴨長明『発心集』(1215?)の「或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事(3-5)」にも、 讃岐の三位という人の乳母の夫の入道 が補陀落渡海を試みた話[大雑把訳]があります。 時期については文中に「近く」とありますので、たぶん1200年頃の話なんだろうと思われます。 この入道、意識がシッカリしているうち往生したいと考えて まずは「身燈」を試みますが、 でも極楽に往生してもなー と思い直し、
なお、こちらのグループ、つまり「南方補陀落にマジで行こうとしている渡海」の事例は 日秀上人の例が16世紀初頭であるのを除けば、ほとんどの事例は13世紀頃のものとなっています。 しかし一見 当然のことのように見える「南方補陀落にマジで行こうとしている渡海」は、 時代が下がってくるとあまり見かけなくなるのです‥。
死の国・熊野 [ 豊島修 ] |
このように、初期に「渡海」した人たちの伝説を見てみると、彼らは本気で「この世界のどこかにある『ふだらく』」を 目指して出航したのでは? と思えたりするのですが。
もちろんそれにはかなりシビアな反論があったりします。
(@_@;
ぐ、ぐうの音もでない‥。
豊島1992は、古代からある海上他界と水葬の風習(p.200のへん?)、
そして滅罪を目指す苦行のひとつ「捨身」の一形態(焼身のパターンもあった)(p.193のへん?)
などが「渡海」と関係してるのでは? のようなことを指摘していて、
なるほどと思いつつも、いまいち消化しきれてないです(^_^;
(「滅罪」については
[ 僕らは餓鬼になるのか? ] をどうぞ。
人は「宿業」によって生まれつき死後の地獄行きは決まってる と考えられてたみたいで、
それゆえ宿業をいかに滅して極楽往生を目指すべきか、というのが大きな課題になっていたようです)
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