[Table of Contents]本文(三国史記)
以下の文書は、
金富軾「三国史記」(1143〜1145)において「花郎」について言及している部分である。
部分としては真興王35–37年 [NDL]である。
本書には、井上秀雄訳注(1980)『三国史記1』平凡社東洋文庫 という訳本があるので、
その日本語訳のほうを以下に紹介しておく。
三十七年(五七六)春、むかし源花を奉じていた。[その理由は]君臣が[有能な]人材を
見つけだせなくて困っていた。[そこで]多くの人を集めて自由に交流させ、それぞれの品
行や道義を観察し、その後[有能な人材を]登用した。やがて、美女二人---一人を南毛、
他を俊貞という---を選び出し、それぞれのもとに三百余人の仲間が集まった。この二人
の美女は互いにあでやかさを競い、相手を妬んでいた。[あるとき]俊貞が南毛を自分の家
に呼びよせて、酒を無理やりに飲ませて酔わせ、引きずってゆき、河に投げこんで殺してし
まった。[やがてこのことが発覚して]俊貞は誅殺された。[そのため、]仲間たちも[中心
人物がいなくなって、]仲間意識がなくなり、散り散りになった。
その後あらためて美貌の男子を選び出し、これに化粧をさせ、美しく装わせて、花郎と名
づけ、これを[多くの若者が]奉じた。その仲間たちが雲のように多く集まり、ある者は互
いに道義を磨き、ある者は互いに歌楽を悦しみ、山地や水辺をめぐり歩いて、どんな遠いと
ころへでも出かけていった。このような交際の中で、互いにそれぞれ人の良し悪しがわかり、
その中で良いものを選んで、これを朝廷に推薦した(59)。
[p.110]
それゆえ、金大問の『花郎世記』(60)には、
賢明な補佐官や忠義な家臣が、これによっていっそう秀れたものになり、秀れた士官や
勇敢な兵士が、このことによって生みだされてきた。
といい、崔致遠の記述した「鸞郎碑」(61)の序文では、
国に玄妙の道があって、これを風流という。その教えの基本は『仙史』(62)に詳しく述べて
いる。その内容は儒・仏・道の三教を含んでおり(62)、直接人々を教化する。とくに内にあっ
ては家で孝行し、外に出ては国に忠誠を尽くすといったことは、魯の司冦[であった孔子]
の教えです。無理をしないで物事に対処することや、不言実行を重んずるという教えは、
周の柱史[であった老子]の主張です。どのような悪も作らず、どのような善行でも勤め
行う[ことは、]竺乾太子[である釈迦牟尼]が教えたところです。
といっている。また唐の令狐澄が著した『新羅国記』(63)には次のようにいっている。
貴人の子弟で美貌なものを選んで、白粉をつけて化粧し、美しく装わせる。これを花郎
といい、国人はみなこれを尊び仕えている。[p.111]
- 59)
-
源花とは、新羅の農村にあった双分組織に類した青年男子の組織の中心に推戴した美女の称。あとの
記事は花郎の発生伝説で、「遺」巻三彌勒仙花末尸郎真慈師条のはじめにほぼ同文がある。花郎は農村
の青少年集団組織で、村落の防衛・祭祀・生産・教育など各方面に活動した。新羅の国家形成期に、こ
の農村組織を国家的に拡充したのが花郎制度である。ただし各花郎集団の独自性が強固で、貴族連合体
制下ではその成果が発揮できたが、王権が確立するとその組織は凋落した。
- 60)
-
『花郎世記』内容は未詳であるが、列伝七金歆運伝の評論にも引用している。
- 61)
-
鸞郎碑 鸞郎は真興王代の花郎と思われる。崔致遠が花郎全盛時代を追想して、三教包含説などを出
したのではなかろうか。
- 62)
-
『仙史』 未詳。その書名からおして、国仙(花郎の異称)の歴史書とみられる。
- 63)
-
花郎の理念は、原始社会の信仰形態を基本に、儒・仏・道の三教を包摂したものである。新羅にかぎ
らず、朝鮮の思想には、外来思想と積極的に習合する傾向がある。
(井上秀雄訳注(1980)『三国史記1』平凡社東洋文庫; pp.109-110,129.)
[Table of Contents]本文(三国遺事)
同じような記述は「三国遺事」にもある。
この部分で、
ここでは「弥勒仙花」なる美少年? が登場していて面白いが、これはちょっとまだ手つかず。
(書きかけ)
関連(?)情報