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餓鬼について

[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]に 端を発して作成している「めも」です。


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[日本]施餓鬼(鎌倉時代〜)

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鎌倉期の「六道供養」の目的は‥

「餓鬼」に限定された話ではないんですけど。餓鬼をも含んでいるはずの「六道」に 話を広げた場合、その六道に関する供養、「冥道供」というものが、 鎌倉時代、幕府の人たちによって頻繁に行われていたという話を見つけましたので、 以下に紹介させてください:

『吾妻鏡』の後編にあらわれるもう一つの儀礼的な特質は、そこに五壇修法とならんで、「冥 道供」の修法がひんぱんに登場してくることである。五壇修法はさきにも書いたように王朝以 来の伝統をもち、不動明王を中心とする五明王による鎮魂、祈禱の儀礼であったが、冥道供は 中世の神祇思想の発展とともに、しだいに体系化された儀礼であった。それは六道の冥界に堕 ちた無数の亡者や鬼霊を祀り、その怪異なはたらきを鎮圧し、最終的に彼らを救済する修法で ある。
 この冥道供においては、東西南北の四方に祭壇が設けられ、そこに天神地祇、十二天、八部 衆、鬼霊などが祀られ、供養を受けるのである。これらの諸天、善神、鬼霊は、もともとはい ずれも祟り神としての性格をもっており、怨霊としての出自をもつものも少なくない。それが 密教の世界観にふれることによって、その傘下に包摂され吸収された。すなわち仏教の守護 神、権化神へと身分を変化させたのである。 (山折哲雄(1983)『神と仏』講談社現代新書, pp.144--145)
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この冥道供によって祀られたのは「天神地祇、十二天、八部衆、鬼霊など」とありますけど、 その上のほうには「六道の冥界に堕ちた無数の亡者や鬼霊を祀り、その怪異なはたらきを鎮圧し、 最終的に彼らを救済する修法」とあります。「六道の冥界に堕ちた無数の亡者」という 話とするなら、餓鬼もその中に入りますよね普通。餓鬼は「鬼霊など」の「など」に 入っていると解釈できそうです。よね?

 ただ、あの「餓鬼草紙などに描かれている、みじめな怪物としての餓鬼」どもも その中に含まれてはいるんでしょうけど。 冥道供の目的が「亡者」や「祟り神」の「怪異なはたらき」の鎮圧に重点が置かれてますから、 まあ、ここでは実質アウトオブ眼中な感じなんじゃないですかね。

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冥道供とは、祟りを抑える儀式

んで。何故、彼らを供養するかといえば。いちばんの理由は「その怪異なはたらきを鎮圧」 というところですよね。平安末期から鎌倉幕府成立、そして北条氏が実権を掌握するまで、 非常に多くの有力者が現れては消えていきました。平氏の人たち、源氏の人たち、 そして北条氏に対抗していた有力な御家人たち‥。なので、実権を掌握することで 現世レベルでは一息つけた北条の人たちは、今度は 死んでいった人たちの怨恨による 「たたり」を恐れることとなったはずです。

 そして幕府要人たちに祟りをなす人らは、いったいどこにどんな姿でいるのか。 当時、たぶん一般的だった「死後の世界」観によれば、きっとこんな答えになったのでは ないでしょうか。--- 極楽浄土に行けるような死に方をしてる人は ほとんど皆無のはずだから、きっと地獄などの「六道」に堕ちて、そこで苦しみながら 我等への怨恨を強めているにちがいない‥。

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供養メインは日本的変容

そんな恐怖の気持ちから、 (餓鬼を含む)六道に堕ちた人たちへの供養をしていたというのなら。 それは、『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』で 述べられている餓鬼供養の目的とは、ずいぶん違ったものといえそうです。

 ‥というか、これ、

死んだ人間がやがて祖霊の段階をへてホトケやカミになるという考えが、根強く信じられてきた (山折1983, p.64)
という世界観をベースにした 「死者霊(亡霊、荒魂)は祖霊になるまでは危ない。祟る」という日本の伝統的な信仰と、 インド中国方面から入ってきた輪廻思想ベースの「六道」的世界観の二つ、これら共存が 難しそうな二つの世界観がゴッチャになってできた「死人は六道に行って祟る」という、 何だかよくわからない世界観がベースとなった信仰になってるのが、ちょっと面白いですね。 「六道」は転生先であり、輪廻説に従うかぎり 転生してしまったら 前世の記憶は基本なくなるはずですから、 いったい誰がどういう状況で祟りを残したと考えたのか‥。 そのへんは、よくわかりません。

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室町期の施餓鬼は命がけ

施餓鬼会は どうやら室町期以降に、 亡魂のたたり対策の追善儀礼として流行したらしいです(藤井 p.136)。 つまり日本ではそもそも追善行事として広がったということですかね。 とするなら、やはり「お盆とセットで」となるのは必然な流れか‥。 日本の歴史って、とにかく死者の祟りを恐れまくりな歴史ですからね[*1]

 その「祟り」を回避するための「祀り」という構図に、 のち「供養」が加わり、さらに「供養」が独立したシステム化してくる。 これは「祀るから祟らないで」という亡者優位・ 個別取引的な関係から、 「弱い亡霊を成仏させてやる」厄介払い的な生者優位・因果法則という普遍原理的な関係 (このへん、池上良正(2003)『死者の救済史』角川選書.から) への移行の 流れに位置づけられるという理解でいいんでしょうか。

 それはそうと。室町期、 応永飢饉の最中、1420(応永27)年の施餓鬼供養の状況が描かれてるものを見つけたので 紹介します。これは飢饉という大災害で命を落とした 「亡魂のたたり対策の追善儀礼」そのものだと思うんですけど、

この施餓鬼 供養の直後、大徳寺では、寺の長老が何者かによって殺害されるという陰惨な事件がおき てしまう。‥(略)‥ 施餓鬼供養では、仏前に供えた食物 などが儀式の後に参列者に下げ渡されることになっていた。そのため、この頃の施餓鬼供 養の場では、下し渡される供物を目当てに様々な人々が寺内に入り込み、ときには寺内が 騒然とした空気に包まれることすらあった。長老の殺害は、きっとそんな混乱のなかで引 き起こされたものだったのだろう。
 また、この日、同じく相国寺で行われた施餓鬼供養では、施餓鬼の最中、突然、喝食 (禅寺の稚児)たちのあいだで猛烈な石合戦が展開している。‥(略)‥ 運悪く、そのうちの一 石が義持の頭部に当たってしまったのである。前代未聞の珍事! 鎌倉から江戸までの歴 代将軍のなかでも、頭に石を投げつけられたのは、彼ぐらいではないだろうか。 (清水克行(2008)『大飢饉、室町社会を襲う!』吉川弘文館歴史文化ライブラリー258, pp.158--159)
 応永の大飢饉の翌年、応永29年(1422)9月、五山寺院の行った河原での施餓鬼 では、供物のおこぼれをめぐって勧進僧と河原者のあいだで大乱闘がおきてしまっている。 このときは、勧進僧一〜二名が殺害されたうえ、大雨大風のなか施餓鬼の供物はあたりに 散乱し、それを河原者が奪い合って、せっかくの施餓鬼はめちゃくちゃになってしまった という。‥(略)‥ 文明14年(1482)の天龍寺の施餓鬼のおりには、やはり 施餓鬼で使った「小幡」を取り合って嵯峨の人々が喧嘩をおこしている。しかも、これを 寺側が厳しく取り締まったところ、嵯峨の人々はこれを恨んで報復に乗り出し、寺内に乱 入して寺僧一人を殺害し、さらにその首をみせしめに釈迦堂(清涼寺)の門に晒してし まったのだという(『長興宿禰記』文明14年7月15日条)。これでは寺側は怖くておちお ち施餓鬼もできない。 (清水2008,pp.191--192)
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なんでしょうねこの緊張感‥。とてもじゃないですけど、 これが「死者供養の儀式」だなんて口が裂けても言えないほどですね。 飢饉の最中だったりすると 供物の奪い合いの結果、死者が出てしまう(そういう人は餓死鬼になるんでしょうか?) というのは仕方ないかなと思わないこともないですけど。 食料ではない「小幡」の奪い合いを規制した寺僧が恨まれて殺され、首を晒された‥なんて 話になると、おまえら本当に供養する気あるのか?! とツッコミ入れたくなりますね。

 それはそうと。 応永大飢饉の翌年、1422(応永29)年に河原で行われた施餓鬼は9月と書かれてますね。 「お盆」と施餓鬼の主目的はどちらも「死者供養」ではあるものの、 やはり供養の対象が違っているのでまだ両者がセットになるところまでは行ってないんですかね。

 別資料によれば江戸時代、 秋田県男鹿市あたりで起こった地震(1810(文化7)年8月27日)における死者たちへの 追善のため、同10月2日に「変死亡霊供養」の大施餓鬼が行われたとのことですので、 つまり施餓鬼はお盆と必ずセットという訳でもなさそうですね。(菅江真澄(内田・宮本編訳)(2000)『菅江真澄遊覧記5』平凡社ライブラリー, p.161) 大飢饉とか大地震のような大災害であれば、 それ専用の特別な供養を行うというのは、まあ、自然な話ではありますけどね。

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