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「浄土三部経」と呼ばれるもののうち、 「無量寿経」(日本では普通『佛説無量壽經』(大正0360;康僧鎧譯;[SAT]))、 「観無量寿経」(『佛説觀無量壽佛經』(大正0365;畺良耶舍;[SAT]))で 観音様について語られています。 いずれも、西方極楽浄土において阿弥陀仏の脇侍として存在しておられる、という 位置付けで言及されているようです[*1][*2]。
ちなみに「無量寿」とはサンスクリットの "amitaayu.s" の意訳ですね。これを意訳せずに先頭部分を音写すると「アミター」となります。 つまり阿弥陀仏のことですね。
[Table of Contents]なお、ここで「極楽浄土」の方角について念のために書いておきます。 「無量寿経」(大正360)」によれば‥
ここで言われる「安楽」というのがアミダ仏の「仏国土」の名前となります。 この文献では「安楽」となってますが、他の文献では「極楽」という訳語も使われていて‥ というかたぶん「極楽」という訳語のほうが有名でしょうね。極楽浄土。
「観無量寿経」[大正365]にも 以下:
なお。極楽浄土は「去此十萬億刹」、大雑把訳では 「ずーーーーーーーーっと遠い西方」にある、とされています。 この「ずーーーーーーーーっと」というのは、どれくらいか。
おそらく、 時間でいうと、56億7千万年後に弥勒仏が下生する、という伝説に近いんだろうなと 思います。つまり 「とにかく、はるかに、ムチャクチャ遠い、常識では絶対に到達できないほど遠く」を 表現しようとして、こんな感じの表現になったんだろうということです。
[Table of Contents]ちょっと話は脱線します。弥勒下生が五十六億七千万年後という伝説についてですけど。
「億」と言われると、我々はどうしても「一万の一万倍」と考えてしまいますが、 どうやら仏典の頃はそうではないらしい、万と億の関係がちゃんと決められてるわけでは なかったらしいです。 『觀彌勒上生兜率天經賛』(大正1772; [SAT]) によると‥
‥と、このようにあります。
これを見ると、ちゃんと数として扱われてるだろう「万」と、 万よりはデカいことはわかるけど、じゃあ実際にどれくらいデカいのかが 具体的には決まってないらしい「億」、そんな感じになってるのがわかると思います。 十、百、千、万‥と、十倍ごとに単位の名称が変わっているから 「億」も「万」の十倍だとするものもある。いや、それよりも「億」は大きくて、それは 「万」の百倍としているものもある。それより大きく、千倍にするものも、ある。 そして現在ではそれよりも大きく「万」の一万倍を「億」にしている。 ‥そんな感じだったようですね。そのバラバラな数字の使い方に、 昔の中国人が当惑している。‥そんな感じでしょうか。
(『漢字源』(学研。電子辞書版1993)にも、「億」について「昔の数の単位。十万のこと」「かつては、実在の物として存しない想像上の数であった」などと書いてました。)
閑話休題。ここで極楽浄土に話を戻します。
[Table of Contents]上でも紹介しましたけど、『無量寿経 (T360)』によれば 極楽浄土は「去此十萬億刹」(ここから十万億刹のところ) にあると書かれていました。
しかしまた上記のとおり「億」という数字の解釈には諸説あって、 どれが正しいかわらない‥というか、たぶんもっと漠然と「ムチャクチャ大きい数」という 意味で使ってるんじゃないか? と考えるのが妥当のようにも思われます。
ということはつまり。 極楽浄土は西方に存在することは確かだけど、 そこに直接着いたり見たりすることも、どんな感じなんだろうと想像を働かせたり することさえ常識で考えて絶対ムリ、と。そんな超絶的な距離の隔たりがある 「ずーーーーーーーーっと」遠いところにある、という感じじゃないかと。 それが本来的な極楽浄土の位置付けじゃないかと思います。
[Table of Contents]このように西方浄土は、我々の世界とは隔絶した、 完全なる別世界である。‥というのが、西方浄土の本来の定義のようですけど。
インドや中国とは違って、日本では、西方浄土はそんなに隔絶した場所、 簡単には到達できない場所、とは思われていなかった可能性もあります。
日本の場合、いちおう六道思想的世界観が仏教とともに日本じゅうに浸透していたことは 確かですけど、でも実際に人々の心の中では「人は死んだら地獄か極楽のどっちかに行く」と いう考えが強く支配していたみたいです (see:: 「なぜ餓鬼に」[URL])。 そんな感じの、二者択一的な存在だったからかはわかりませんが、極楽浄土は、なんか 割と行きやすい感じになってるみたいですね。たとえば室町時代の『天狗の内裏』で、 牛若丸が‥
ここ、「お経の文言を書き付けた紙切れ(経文)が強い呪力を発揮する」という 設定は一体どこから来てるの?! ‥というのが個人的には気になるんですけど、それはともかく。 血の池地獄に堕ちてしまった人たちが、その経文の呪力によって 割とアッサリ極楽浄土に行けちゃってます。
[Table of Contents]ところで。じゃあ日本以外では同様のシチュエーションになった場合、どんな 「救済」が用意されているか。‥というのを、いくつか見てみましょう。
[Table of Contents](準備中)
[Table of Contents]日本でもお馴染みの「盂蘭盆経」、これは中国原産のものみたいですけど、
‥ここでも「生天」という語が目につきます。‥ん? この大雑把訳でいいのかな? 「もし父母が亡くなっていても生天する。しかも『天華光』なる場所に生まれることもでき、 そこで無量の快楽を得ることもできる」のほうが良さげ??
‥えー、訳については さておき。中国でも「供養によって父母ご先祖は『生天』できる」のが
基本で、極楽往生できる感じではないみたいです。やっぱ日本だと源信(10c末)『往生要集』によって
「天」も「穢土」の一部としてほぼ全否定されてますから、
そんなところに生まれても何の救済にもならない!! ‥という感じなのでしょうか(-_-)
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