[かんのんさま::メモ]

かんのんさまは南に西に

[梵文法華経/24:かんのんさまの章] に関する「めも」です。

[前] 「かんのんさま」と浄土往生

かんのんさまは西(西方浄土)に

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はじめに

「浄土三部経」と呼ばれるもののうち、 「無量寿経」(日本では普通『佛説無量壽經』(大正0360;康僧鎧譯;[SAT]))、 「観無量寿経」(『佛説觀無量壽佛經』(大正0365;畺良耶舍;[SAT]))で 観音様について語られています。 いずれも、西方極楽浄土において阿弥陀仏の脇侍として存在しておられる、という 位置付けで言及されているようです[*1][*2]

 ちなみに「無量寿」とはサンスクリットの "amitaayu.s" の意訳ですね。これを意訳せずに先頭部分を音写すると「アミター」となります。 つまり阿弥陀仏のことですね。

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「西方」について

 なお、ここで「極楽浄土」の方角について念のために書いておきます。 「無量寿経」(大正360)」によれば‥

佛告阿難。法藏菩薩。今已成佛現在西方。 去此十萬億刹。其佛世界名曰安樂。 // [大雑把訳] 仏は阿難に仰せ。「この法蔵菩薩だが、今はすでに仏となり、ここから、 ずーーーーーーーーっと遠い西方におられる。その仏の世界は『安楽』という」 (大正蔵 0270a05 [SAT]; 山口桜部森訳(2002) p.44)
こうあります。

 ここで言われる「安楽」というのがアミダ仏の「仏国土」の名前となります。 この文献では「安楽」となってますが、他の文献では「極楽」という訳語も使われていて‥ というかたぶん「極楽」という訳語のほうが有名でしょうね。極楽浄土。

「観無量寿経」[大正365]にも 以下:

亦令未來世一切凡夫欲修淨業者得生西方極樂國土。 ([大正蔵 12:341c08 (SAT)]; 山口桜部森訳(2002) p.190)
お。こちらは「極楽国土」となってますね。これは無量寿経の「安楽」と同じものです。‥ というのはさておき、こちらでも極楽浄土(国土)は西方にある、とされているのが確認できます。

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極楽浄土は、はるか遠くに

なお。極楽浄土は「去此十萬億刹」、大雑把訳では 「ずーーーーーーーーっと遠い西方」にある、とされています。 この「ずーーーーーーーーっと」というのは、どれくらいか。

 おそらく、 時間でいうと、56億7千万年後に弥勒仏が下生する、という伝説に近いんだろうなと 思います。つまり 「とにかく、はるかに、ムチャクチャ遠い、常識では絶対に到達できないほど遠く」を 表現しようとして、こんな感じの表現になったんだろうということです。

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「億」という数字

 ちょっと話は脱線します。弥勒下生が五十六億七千万年後という伝説についてですけど。

「億」と言われると、我々はどうしても「一万の一万倍」と考えてしまいますが、 どうやら仏典の頃はそうではないらしい、万と億の関係がちゃんと決められてるわけでは なかったらしいです。 『觀彌勒上生兜率天經賛』(大正1772; [SAT]) によると‥

「西方有三億數。一十萬爲億。二百萬爲億。三千萬爲億。」 (p.38:295a9--10; [SAT])
[大雑把訳]: 西方には3種類の億がある。[1]十万を億とするもの、[2]百万を億とするもの、[3]千万を億とするもの、である。

‥と、このようにあります。

 これを見ると、ちゃんと数として扱われてるだろう「万」と、 万よりはデカいことはわかるけど、じゃあ実際にどれくらいデカいのかが 具体的には決まってないらしい「億」、そんな感じになってるのがわかると思います。 十、百、千、万‥と、十倍ごとに単位の名称が変わっているから 「億」も「万」の十倍だとするものもある。いや、それよりも「億」は大きくて、それは 「万」の百倍としているものもある。それより大きく、千倍にするものも、ある。 そして現在ではそれよりも大きく「万」の一万倍を「億」にしている。 ‥そんな感じだったようですね。そのバラバラな数字の使い方に、 昔の中国人が当惑している。‥そんな感じでしょうか。

(『漢字源』(学研。電子辞書版1993)にも、「億」について「昔の数の単位。十万のこと」「かつては、実在の物として存しない想像上の数であった」などと書いてました。)

 閑話休題。ここで極楽浄土に話を戻します。

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極楽浄土の遠さは、漠然とした感じ

 上でも紹介しましたけど、『無量寿経 (T360)』によれば 極楽浄土は「去此十萬億刹」(ここから十万億刹のところ) にあると書かれていました。

 しかしまた上記のとおり「億」という数字の解釈には諸説あって、 どれが正しいかわらない‥というか、たぶんもっと漠然と「ムチャクチャ大きい数」という 意味で使ってるんじゃないか? と考えるのが妥当のようにも思われます。

 ということはつまり。 極楽浄土は西方に存在することは確かだけど、 そこに直接着いたり見たりすることも、どんな感じなんだろうと想像を働かせたり することさえ常識で考えて絶対ムリ、と。そんな超絶的な距離の隔たりがある 「ずーーーーーーーーっと」遠いところにある、という感じじゃないかと。 それが本来的な極楽浄土の位置付けじゃないかと思います。

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日本的極楽浄土

 このように西方浄土は、我々の世界とは隔絶した、 完全なる別世界である。‥というのが、西方浄土の本来の定義のようですけど。

 インドや中国とは違って、日本では、西方浄土はそんなに隔絶した場所、 簡単には到達できない場所、とは思われていなかった可能性もあります。

 日本の場合、いちおう六道思想的世界観が仏教とともに日本じゅうに浸透していたことは 確かですけど、でも実際に人々の心の中では「人は死んだら地獄か極楽のどっちかに行く」と いう考えが強く支配していたみたいです (see:: 「なぜ餓鬼に」[URL])。 そんな感じの、二者択一的な存在だったからかはわかりませんが、極楽浄土は、なんか 割と行きやすい感じになってるみたいですね。たとえば室町時代の『天狗の内裏』で、 牛若丸が‥

自分の母や血の池地獄に沈む罪人を救うために、「大ば本のかん文」という経文を ‥(略)‥ と唱えて、池のなかに投げ入れた。すると、経文が蓮華となって、罪人たちを 池のなかから浮かび上がらせ、阿弥陀如来が紫雲をたなびかせ、女たちを西方浄土へと 導いたのである。(川村邦光(2000)『地獄めぐり』筑摩書房(ちくま新書246). p.202.; 省略は引用者つまり私による。)
「善良な市民は救済されるべき‥いや、救済してください」という、あたりまえの 欲求があって、そして「救済があるとしたら、それは極楽往生しかない」という 極端な世界観がある。なので地獄に堕ちてしまった人たちの救済も、 「大ば本のかん文」というお経 (たぶん『妙法蓮華経』の(12)提婆達多品変成男子して仏となる竜女の話が出てくる章) が書き込まれた紙束(?)を地獄池に投げ込むという、 割と安直な方法で行ける‥こともある、と。

 ここ、「お経の文言を書き付けた紙切れ(経文)が強い呪力を発揮する」という 設定は一体どこから来てるの?! ‥というのが個人的には気になるんですけど、それはともかく。 血の池地獄に堕ちてしまった人たちが、その経文の呪力によって 割とアッサリ極楽浄土に行けちゃってます。

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[余談] 日本以外の救済 (書きかけ)

ところで。じゃあ日本以外では同様のシチュエーションになった場合、どんな 「救済」が用意されているか。‥というのを、いくつか見てみましょう。

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地蔵菩薩の母親

(準備中)

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佛説盂蘭盆経

日本でもお馴染みの「盂蘭盆経」、これは中国原産のものみたいですけど、

若已亡七世父母生天。自在化生入天華光。受無量快樂 (佛説盂蘭盆經 (大正685; p.16:779b23--24; [SAT])
[大雑把訳] 亡くなったご先祖が神様たちの世界に生まれ変わっていたとしても、 もっと極上の世界『天華光』に生まれ変わって、 限りない快楽の中で暮らせるようになる。 [もっと‥]

 ‥ここでも「生天」という語が目につきます。‥ん? この大雑把訳でいいのかな? 「もし父母が亡くなっていても生天する。しかも『天華光』なる場所に生まれることもでき、 そこで無量の快楽を得ることもできる」のほうが良さげ??

 ‥えー、訳については さておき。中国でも「供養によって父母ご先祖は『生天』できる」のが 基本で、極楽往生できる感じではないみたいです。やっぱ日本だと源信(10c末)『往生要集』によって 「天」も「穢土」の一部としてほぼ全否定されてますから、 そんなところに生まれても何の救済にもならない!! ‥という感じなのでしょうか(-_-)

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