あらまし::暫定開業は1936年
[Table of Contents]意外と大掛かりな開業
正直申しまして、現在のところ、歴史等について私は何もわかっていません。
ただ、観音像を見てみると 細かい造形がけっこうハッキリ残っているので
昭和に入ってから安置された可能性もありそうですね
‥なんてことを書いていましたが、
「二〇世紀ひみつ基地」というブログ[URL]の
2010.10.11 付『金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山』という記事に
いろいろと情報が書いてありました。すげえ!(^o^)
七つ森の登り口近くに建つ‥(中略)‥昭和九年に建立した‥(中略)‥「四恩之碑」建立を
きっかけとしてその後、妙覚寺住職を中心に、秋田市内で一月に行われる
「久保田三十三番札所巡礼」(通称・札打ち)の三十三観音が安置されている寺院住職らの
発起により、金照寺山を三十三観音霊場とする計画が進められ‥(中略)‥
三十三観音像のうち約半数が建立された昭和十一年六月、観音さんの縁日にあたる
十八日に第一回の巡礼が行われ‥(中略)‥
三十三体が揃った翌昭和十二年六月十八日、曹洞宗大本山総持寺貫首・伊藤道海禅師を
招請し、四恩碑前にて完成供養の大法要を営む。
(
『金照寺山「三十三観音巡礼」札打ちの山』 [URL], 2010/10/11,
「二〇世紀ひみつ基地」. 中略だらけ、という非常にヘンな引用ですが‥)
「四恩の碑」の「四恩」については、たぶん出典は
これ [SAT] みたいですね。‥というのは
さておき。
[Table of Contents]観音様ブームに乗った?
上にあげた引用部分などから以下のことがわかります。
- 1934(昭和9)年から1937(昭和12)年にかけて建立
-
「久保田三十三」のお寺の住職らの発起
(昭11年の法要は(久保田三十三には入っていない)「補陀寺住職導師のもとに三十数名の衆僧により読経」)
- 6月18日を選んで二度法要が行われた
- 建立者には女性が多い。[*1]
- 建立当初は参詣者でごった返していた(!)
この企画が出てきた1934(昭和9)年前後は、たぶん「観音様ブーム」だったと
思われます(柴谷宗叔氏
[URL]によれば「第三期」)。
たとえば
宮城県松島にある瑞巌寺の三十三観音 [URL]も1934(昭和9)年に建立されていますし、
同じ宮城県白石市を中心とした「刈田郡三十三観音」も同じ1934(昭和9)年制定らしいです。
そういった全国的なブームが金照寺山三十三観音建立の動きを後押ししたんでしょうね。
しかし、それにしても。どこかの単独の寺院ではなく、秋田市にある、かなり多くの寺院が
協力して発足しているらしい点はちょっと注目しちゃいますよね。
かなりの「鳴り物入り」なスタートだったことがわかります。
[Table of Contents]よくわからないこと
一方、現時点で「ちょっとわからねえな」と思ったことですけど‥
- 法要が行われた「6月18日」という日付の役割。
(「観音さんの縁日」は18日だけど、6月に限った話ではないはず。それに「久保田三十三」に絡む何かで18日というのは聞いたことがないです。突然すぎじゃね??)
- そもそも何故「久保田三十三」の住職さんたちが自分たちの寺とは別に「西国三十三」の
ミニチュアを作ろうという話を思いついたのか?
「久保田三十三巡礼札打のミニ版」という発想があったのか?
日付のことについてはさておき(1月の厳冬期はキツいから別の時期に、ということで
6月案が出てきたというのであれば、
別にミニチュア作るというところに話を持っていく必要もないはず)。
ミニチュアを作る動機については
「ふつうの観音巡りと違って、決まった日時に なかば義務的に廻らされるものなのに、
厳冬期の深夜の
秋田市内を6時間もかけて廻れなんてムチャ!」という人々の声でもあったんでしょうか。
‥あって当然とは思いますが
(^_^;
(この項書きかけ。まだ考えを整理しきれていません)