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でもたぶんそれは考えすぎで、もっと簡単に、観音様にいろんなことをお願いしたい人たち、 いや場合によっては特にお願いしたいことがすぐに思いつかないような人であっても、 お詣りしたくなった時に軽いノリでブラリと巡って手を合わせられる そんな日本各地に大量に存在する 「いろんな意味でミニ(このページ的には「プチ」と書くべきか)で手軽な パワースポットとしての(?)石仏三十三観音」のひとつとして 計画され建立されたという理解で十分なんでしょうね。
しかし 建立する側に「プチ札打処」という考えがあろうがなかろうが、 それを利用する人たちがどう考えるかというところまでは制御できないわけで。 「三十三観音」イコール「追善のため札を打って廻るところ」という図式が 頭の中にできあがってる善男善女が多ければ自然とそこが「久保田三十三札打」の 縮小版となってしまうのは当然の成り行きではありますし、実際 秋田はそういう 善男善女ばっかりな訳でして‥
[Table of Contents]ところで。Wikipediaによれば、1930(昭和5)年〜1934(昭和9)年に 「昭和東北大飢饉」 [Wikipedia]と いうものがありました。これも観音様建立の動きを後押ししたかもしれません。 ただ、それだと豊作祈願の参詣というのもありそうですけどね。どうなんでしょうね。 そっちの方が「死者供養」などとは全く関係なさそうな 『観音経』 [Click]的な 観音様の位置付けっぽいですけどね。
[Table of Contents]それと、設立当初は参詣者で ごった返していた[*註1]という話ですけど、 それはやっぱ太平洋戦争の出征者の安全祈願かなー、という 気がします。それと不幸にして戦死してしまった場合の追善と。 戦争というのは、家族からすれば「とにかく無事に帰ってきてほしい」と祈ること くらいしかできないので、このような民俗宗教的なことに関する需要はかなり あったはずです[*註2]。
またこの推測の裏付けになるかどうかは不明ですが、「金照寺山」でGoogleなどで 検索をかけると心霊話とくに「兵隊の幽霊が出る」という話を いくつか見かけます。 「兵隊の幽霊」というのは、ひょっとして、最盛期は戦争(戦死者)絡みのお札が 多かったことに由来してたりしないのかな、なんて。
‥だって、歴史的事実はよくわからないですけど、あそこに軍が駐屯する必然性も、 そこで兵隊さんが落命する可能性も、あまり感じないんですよ[*註3]。 だからあそこに出てくる兵隊さんの霊の話というのは、 たぶん(私は昔の金照寺山を知らないのでアレですが)(戒名を書いた?)札で 埋めつくされた観音様という、強烈に印象に残らざるを得ない光景を見た子どもが親に 「あれ何?」「ああやって兵隊さん(の霊)を慰めてるんだよ(合掌)」的会話から 派生したものなんじゃないかな、と。
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