The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".
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最初のページにも書きましたが、 私が聞いた言い伝えは‥
身内に不幸が あったらその供養のため不幸が起こった翌年から三年連続で 一月十六日未明に三十三番札所を回って「御詠歌」を唱えながら 『札打』なるものをすべし。このようなものです。
この「三年連続」て何だよ? ‥というのがちょっと気になりましたので、 そのへんのところを、ちょっと、調べてみました。
‥といっても、何故この「くぼたふだらく」の巡礼が三年連続になったのか? いつからそうなったのか? などのことは、手がかりが見つからないため、 現状では まったくわからないんですけど‥。
[Table of Contents]死者供養について、まず「三回忌」というのが何かの一つの区切りに 設定されることが多いみたいです。三回忌以前と、三回忌以降では 何かが違う、と。
たとえば「お盆」。
お盆の行事について、没後三回忌までは「新盆」と呼んで、
他の盆とはちがって特別扱いする、という風習もあるところには
あるみたいです(藤井正雄(1980)「盂蘭盆と民俗」『講座日本の民俗宗教(2)仏教民俗学』,
p.125.を参照)。
(ただし「三回忌」って 命日の丸二年後の日になりますから、
「三年」とはちょっと違うんですけどね。
今のところ、そのへんの違いは無視してます^^;
)
この「お盆」、死者供養は三回忌まで、というのはおそらく 鎌倉時代から江戸時代頃まで? 広がっていた「十王信仰」なるものとも 関係していそうですね。日本における死後世界イメージの構築に一役買ったとおぼしき 「地蔵十王経」も、 死後三回忌に 10:五道転輪王のところで
三度目の 関所を越えて ここに来た 悪人どもは 追善たよれこんな韻律詩が語られたところで、何の救済も提示されないまま (いや。「追善たよれ」とありますから、「追善」を救済手段として指示してるんでしょうけど。後述) 唐突に終わってます。これはつまり、 三回忌過ぎたらもう どうでもいいというか、死者が神さまになったというか、 そんな感じのことが想像できますよね。 [Table of Contents]
不善なす 者ども、生まれ 替わっても 千日もたず すぐに落命
放逸と 邪見それこそ 過ちで 愚痴無智それは 許されぬ罪
過と罪が 車輪のごとくに 回転し 我らは向かう 三途の地獄
んで、三回忌を迎えるまでは「追善たよれ」と。追善というのは、 追善供養、別の言葉でいいかえると「死者供養」です。
人は何故「死者供養」を行なうのか。
これは人ごとに いろいろな考えがあるとは思いますけど。 単純な日本仏教的世界観に従うと、生前に善いことをするほど死後の境遇は良きもの安楽なものになり、 逆に 悪いことをするほど死後の境遇は悪しきもの苦しいものになる、と。 そして各自の 死後世界の境遇はいつ決まるかといえば、 基本的には 人が死んだちょっと後に、その人の生前の行いの善悪の総量に基づいて 判断されるというのが基本(日本的には[地蔵十王経:: 05閻魔王における裁決]的な感じですね) なんですけど。
でも実はそこには微妙な例外というか抜け道というか、そういうものも用意されていて、 それが「追善供養」というやつです。 誰かが亡くなってから そんなに時間が経過してない時であれば、 遺族が本人になりかわって仏様を拝んだり、お布施をしたり‥などの「善行」を 行なうことによって生じた「功徳」を、 すでに亡くなった死者がおこなった「功徳」の追加分として 「あの世」に送ってやることができる、そしてそれによって 死者の死後世界での状況がちょっとはマシになるかもしれない。 ‥そういう(死者の子どもであれば)「最後の親孝行」の機会が 残されているのです。
そしてその期限は、 「十王経」などによれば三回忌まで。‥‥そんな感じみたいですね。
[Table of Contents]そういえば。 ウチの菩提寺の施食会(施餓鬼会のこと。曹洞宗なので)の通知には 「身内に不幸があった三回忌までの檀家さんが対象です」とありました(うろおぼえ)けど、 たぶんそれも同根なんでしょうね。
まあ「餓鬼」というのは元をたどると「鬼」、すなわち「亡者」ですから (関連情報: [インド仏教の餓鬼は亡者(死者)] をどうぞ) 同根というのは当然の話なんですけどね。
[Table of Contents]んで、この「三回忌までは特別」という考え方はどこから出てきたのか。
日本では、仏教渡来以前のことはまだ調べてないので何とも言えないんですけど。
私が見つけた中では、 『続日本後記』の842(承和9)年7月丁未に 嵯峨天皇が「墳墓つくるな。死後の祭祀(国忌)やめろ。墓守は置いてもいいけど、 あくまで皇室の私的レベルで。しかもMax3年な」という旨の遺詔を行ったらしいです (参考: 田中久夫(1980)「仏教と年忌供養」『講座日本の民俗宗教(2)仏教民俗学』,p.199)。 ここで言われている「Max3年な」というあたりからは、 「三回忌までは『死者霊』だから、そこまでは 自分の葬儀をやっていい。 それ以降はムダだから廃止せよ」という 「現代までつながる、十王信仰的な三回忌までの格別な供養」と同じ匂いを感じますけど、 そのへん、どうなんでしょう。
そのような死後世界のイメージは、嵯峨天皇から400年くらい後、鎌倉時代になると
「鎌倉時代に著された『葬喪記』には、墓に植樹すると、三年を経て人の気が去って神と
なる、という記述があるという[藤澤 1990]」(佐藤弘夫『死者のゆくえ』岩田書院,2008. p.72)
(孫引きですみません^^;
)‥などのようにあり、
「人は死後三年たつと、それまでとは異なった『神』に昇華する」という考え方が
あるんだろうと見当はついてくるんですけど。嵯峨天皇も例もそういう例かどうかは、
よくわかりません‥。
「三年」は中国の儒教起源という話もあるみたいです。儒教の‥
大祥(三年の喪)・小祥が仏教に取り入れられて、 大祥は三回忌、小祥は一周忌と呼ばれ、重要な法事となっている。 (加地伸行(2011)『沈黙の宗教--儒教』, 筑摩書房(ちくま学芸文庫), p.110)
また別の本によれば、儒教では 真の死亡日(例:5/10)の前日(5/09)を公式な死亡日とする伝統があり、それで数えると 2年後の日(5/09)が満二年の命日となり、真の死亡日の2年後(5/10)が三年目の初日となるが、 その日が「三年目の日」となり、日本の「三回忌」のルーツとなっていると (加地伸行(2007)『孝経<全訳註>』(大文字版),講談社学術文庫, p.110)。
でも、じゃあ、そもそも何故三年というのが出てきたのかといえば、 以下だそうです:
遠い遠い昔、中国は古代では、死者の肉体を野ざらしにしてできるだけ早く腐敗させる。 ‥(略)‥ 大陸性気候のため、空気が乾いている中国黄河流域では約二年かかるという。‥(略)‥ この経験的に知った二年間ということが人々の記憶に残り、二年たって白骨化したとき、 臨終に始まった<死>がここに終わると考えた。 いや、<生>が終わると言うべきかもしれないが。 (加地2011,p.108)‥んー。このルーツに関する記述については、なるほどと思う一方、本当かよとも思いますね。 裏付けってあるんでしょうか。まあ大先生がそう仰せならそうなのかも、という感じです。
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