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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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00:熊野山地内

「熊野路や‥」の御詠歌は紀州(和歌山県)熊野那智の山の中にある 妙法山 阿弥陀寺(本尊・阿弥陀如来)の御詠歌に対応しており 「西国三十三」のものではない。それゆえここを〇番札所とした。 阿弥陀寺のご詠歌は以下:

くまの路をもの憂き旅とおもふなよ 死出の山路でおもひ知らせん
これですけど、 久保田のはこの後半部分が「おもへしらせよ」で 微妙にニュアンスが違ってます。

 本当のところは不明ですけど。1977(昭和52)年10月、放火によって熊野神社が 焼失してしまったようなんですけど。ひょっとしてその時に泉福院十王堂を「臨時一番札所」に したところ、そのまま両方が札所として定着しちゃった‥という可能性もありそうですけど、さて。

 なお「西国三十三」の御詠歌は「ふだらく」とも呼ばれますが、これは一番札所のご詠歌が 「ふだらくや‥」で始まるから、ですよね?(^_^;

 ‥「いや、そうじゃなくて。そもそも『ふだらく』って何だよ?」という人は [ かんのんさまは南(南方補陀落)に ] [URL]をどうぞ。 また 「死出の山路」[URL]といえば「かんのんさま」よりも「お地蔵さま」のほうが近くね?という 気もしますけどね(西院河原地蔵和讃 [URL])

 「え? でもここ神社じゃね?? なんで観音堂があるの???」‥1868(慶応4/明治元)年に「神仏分離令」が出て 神様と仏様をムリムリと分離させられるまでは、神様と仏様はそれほど厳密に区別されてる訳では ありませんでした [関連情報: [メモ] 秋田における神仏分離]。 さらに紀州(和歌山)の(本家)熊野自身が、江戸時代中期頃までは神仏習合・修験の聖地だった訳ですしね‥。 (江戸時代中期頃から、紀州徳川家の意向によって(本家)熊野が純粋な神社化・神道化したらしい (豊島修(1992)『死の国・熊野』講談社, p.141))

 所在地について。泉郵便局前を抜けたすぐ先にある石成歯科医院、その隣に熊野神社の参道があります。 そこから詣るのが基本と思います。急な階段をちょっと登ります。 自動車で詣る場合は、どこに駐車するかの判断がちょっと難しいかも。

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01:泉福院十王堂

「十王」については [ 仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 ] をどうぞ

 1800年頃、菅江真澄が描いた泉福院近辺のスケッチは [1][2]をどうぞ。 でも「十王堂」がないですね。「十三仏堂」と同じなんでしょうか。 (「十王」と「十三仏」については [ 十王から十三仏へ ] をどうぞ。)

 さらに「熊野神社の下にあった泉照院と、その南にあった十王堂はともに廃寺となった。」 (秋田市ものがたり 古くから開けていた泉一帯)という情報もあり、これを信じるかぎり、 私が現在イメージする「十王堂」と、江戸期の「十王堂」(もしくは「十三仏堂」)は 別モノだったりするんでしょうか。急にわからなくなってきました。

 ところで。泉福院十王堂て、建物が なんかイマイチ宗教施設ぽくないのが、ちょっと気になるんですよねー。 ‥なんて思ってましたが、そう考えるのは私だけではないみたいで。 CCSFというサイトの人も「旧旭川村役場と睨んでいる泉福院十王堂」と書いてました [URL]。本当のところはどうかというのは わからないんですけど、さもありなん、とは思います。‥でも。もしそうだとすると、 いま私が「〇番札所」と呼んでるところが やはり当初の一番札所なんですかね。 札所をちょっと里に近いところに移してみたけど、昔からある旧札所にみんな行ってしまうから、 なんとなく旧札所が〇番札所化したとかいう感じ、とか?

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02:闐信寺

読みは「てんしんじ」。 「闐」の字(門+真)を使うのはツラい、ということで「てん信寺」、 「関」という字を使って「関信寺」、あるいは「間」を使って「間信寺」‥ なんて感じで書かれてるのも見たことがあります。 地図見たら「関信寺」でした。 でも「関信寺」で「てんしんじ」と読むのは可能なんでしょうか?

(eKanji data)  なお。WindowsXP など「闐」の字が表示できない環境にある方で「これ、どんな字?」と 思う人のために言っておくと、諸橋『大漢和』の41446番目の漢字 [URL][play eKanji]です。

 1800年頃、菅江真澄が描いた闐信寺近辺のスケッチを右に示します。

 ところで現在、この近くに平田篤胤翁の墓があります。けど篤胤翁は生前「〽︎なきがらは、何処の 土に、なりぬとも、魂は翁の、もとに往かなむ」と希求しておりましたので[関連]、たぶん篤胤翁の魂は山室山(本居宣長墓; 三重県松坂市)に鎮座しているはずです。

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03:本念寺

2022(令和4)年11月4日に火事があり、 享保年間(18世紀前半)に他から移設された本堂が全焼とのこと。 2023年以降、どうなるんでしょう??

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04:(明田)観音堂

平成十三年一月十六日、四番長泉寺、五番長泉寺で札打ちを見学した。四、五番は長泉寺と あるが実際は明田の磯前神社境内の観音堂が札打ちの場所である。四番では楢山の若い夫妻が 応対し、五番では明田の奥さんたちが応対し、鉦を叩き、ご詠歌を謡って協力していた。 札打ちは地区の人達の奉仕で成り立っていたのである。 (『秋田市史(16)民俗編』2003(H15),pp.558-560)
三番は赤沼の本念寺、四番は富士山の下の無名の寺、五番は楢山の長泉寺、六番は満福寺と 続く(『広報あきた』(vol.876; 1982/03/01)「随想横町」)
「富士山」とは明田にある 「明田富士」[URL]のこと。

 実際に行ってみるとわかりますが、明田観音堂(左図)、長泉寺、この両方に4番5番の2つの札所があります。 2011(平23)年1月16日(右図)は5番札所だけオープンしており、上記平成13年(ちょうど10年前)の 記述と比べると規模縮小の感が否めません。んー。

 「久保田名所記」(18c前半)(『第三期 新秋田叢書 第13巻』)で「久保田三十三所」と明記されている 楢山水井山清水寺、(楢山)香哥山医王寺が、おそらく明田にある4番5番(順不明)だろうと 思います[関連]。 実のところはよくわからないですが、 明田の富士山のところにある「馬頭観音堂跡」[URL]、これ、 『名所記』に「一、楢山水井山清水寺 久保田三十三所。 本堂馬頭観音、弘法大師御作(p.229)」とありますが、 この「本堂馬頭観音」ですよね?

 ところで。明田神社にある由緒書にこんなことが書かれていました (17年というのは2017年? んー、平成23年(2011)に見た記憶がない‥)

馬頭観音堂が売却移築されてから、 この地域に不幸が続いたので、 土地の住民達が磯前神社の境内に 明田神社を建て、改めて馬頭観音を 祭ったのがこの神社であると言う。
      17年8月 明田町内会
つまり札所としては一度消滅して、長泉寺が札所を代行するようになった後に 観音堂が復活した、すると明田が札所だったことを記憶してた人たちがまた 参詣するようになった。‥という感じなんですかね。 最後が「であると言う」で終わっているのは所謂「古老の言い伝え」感があります。

 あと、楢山でもうひとつ廃寺になったとおぼしき香哥山医王寺。「久保田名所記」によれば以下のようにあります:

一、同所香哥山医王寺 久保田三十三所。本堂薬師如来。いつの頃か、薪の内に薬師の像有りしを崇奉りぬ。世に薪木 薬師と云り。霊験有かたき事ともなり。御堂の上の山ハ古館なり。香哥のあかしとやらん住けるよし故に、香哥か 館と云り。正観音、十王堂。別当修験吉祥院。(p.230)
ここで「香哥か館」というのが出てきますが、これって香奇館 [URL]のことですよね? てことは、 今の明田観音堂(in磯前神社境内)って実は昔は医王寺の敷地だったということですかね。 上でも書きましたが、それらの寺が (ひょっとしたら [ 明治最初期の廃仏毀釈の流れ ] を受けて) 廃寺になったり観音様が売却されたりしてしまった後、 その跡地に残ったものが楢山の長泉寺の保護下に入ったものの (馬頭観音様が長泉寺に保護されたのかは不明)、 その後「ほら、そんなバチ当たりなことするから!」という 感じの反動が地元衆から出て (たぶん新規に別の)観音像が安置され直すなどのことがあったため 札所に混乱が生じてしまったんだと思います。

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