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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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30:不動院

不動院は「庚申堂」という別名があるらしく、今でもかなり大量の庚申塚が 置かれている[参考] [関連]

 『秋田風土記』 (1815)には以下:

▽ 神明堂境内観世音堂 久保田三十三所第三拾番札所。凾岡神明と称す。神主。例祭六月十六日宵灯多 し。諸願の者鶏一番を納む。故に社内鶏為郡。
このようにあり、 もともとの30番札所は「神明堂(凾岡神明)境内観世音堂」だったことがわかる。場所的には
「地方気象台や青年の家も丘を削って建てたが、この辺はかつて箱岡山または神明山、八橋山などと呼ばれた。(p.174)」 「神明山のはずれ、県青年の家の南の付近に、毘沙門さまが建っていた。(p.175)」 「毘沙門の北に、箱岡神明があった。(p.176)」 (引用はいずれも『秋田むかしむかし』,秋田魁新報社文化部,1965.)
‥‥なるほど。江戸時代の地図[詳しくはこちら]を見ると、 北から南にかけて「山王」「天神堂、寿量院など」「伊勢神明」「毘沙門天」が並んでいる ようですけど。この「伊勢神明」というのが「函岡神明」で、その境内にあった観音堂が 30番札所ということですね。(ちなみに 「神明」というのは「お伊勢様」のこと [Wikipedia]です)。現在の八橋野球場のへん?! となると毘沙門堂は、八橋球場と文化会館の間くらい??

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31:不動院

『秋田風土記』 (1815)には以下:

▽天満宮 神主土崎縫殿助、例祭三月廿五日神楽あり。此祭日前より此日に至り、童部薄板に大文字 を書、額として奉る。又紙にも書て奉る。凡神前に満、社内の梅枝にも打付るなり。此日参詣尤多 し。春廿五日を初天神と称す。参詣群集す。八月廿五日を秋祭として群参し又頓阿が作る処の人丸の 神像あり。此日合セ祭るなり。社内保食堂ハ本尊観世音、俗菩薩堂といふ。久保田三十三所第三十一 番札処、祭礼六月十八日湯立神楽あり。又正月十六日、七月十六日参詣群集す。
このように書かれてあり、 もともとの31番札所は八橋の「天満宮」だったことがわかる。

天満宮については、 天延期(970頃!)か元和期(1620頃)かに天王町出戸字北野に建立、 慶安(1650頃)に いま川尻総社神社がある場所に移転、 1659(万治2)年に箱岡天満宮として八橋に移転、しかし同所に寿量院建立のため 1746(延享3)年に現在地に移転、という感じのようです(『秋田むかしむかし』 p.181)。 ということは秋田風土記の頃はすでに現在地移転後と思われますので、『秋田風土記』の 31番札処「社内保食堂」があったのは今の菅原神社の境内じゃないかと思います [詳しくはこちら]

 なお『秋田市史』(2003)には、31番について「近くの普門寺であったが廃寺となり、 不動院がかねている」と書いてありますけど、さすがにそれは間違いだろうと思います。

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32:普門寺(全良寺内)

普門寺(真言)は、開基不明だが、  元禄五年『秋田六郡寺院調』に、真言三十二寺の一 つとして名が見える。
 寺伝では、弘法大師が四十二歳の厄よけのため、自 作の彫り首三体を海中に投じ、流れついた所に、大阪 天王寺、川崎大師、八橋普門寺が建ったという。秋田の 漂着場所は外旭川笹岡(当時は海岸とか)というこ とになっている。俗称"弘法さん"は、これにちなむ もの。
 厄よけとハシカの仏として信仰され、二十一日の縁 日には、あまたのノボリでにぎわったが、昭和十五年 秋元光道住職が、八十三歳でなくなってから、まった くの廃寺になった。
 ただ正月十六日「秋田三十三番霊場」の札打ちの末 寺として、ささやかな存在をみせている。 (『秋田むかしむかし』,秋田魁新報社文化部,1965. p.174)

 また「普門寺」は元々33番満願札所だったのが1940(昭和15)年に廃寺、 全良寺が代行となった後に 満願札所返上のため32番札所に変更、という流れだと私は確信しています。 そうでないと、満願した後に唱えるはずの善光寺の御詠歌を、なぜ 32番札所の全良寺で唱えるのかが理解できなくなるからです。 つまり、32-33番の巡礼ルートが現在のようになったのは戦時中の頃から、という 感じになるんでしょうか。

 しかし1815年(江戸時代)の「秋田風土記」を見ると、現状と同じ 「32番 普門寺」「33番 皈命寺」という順序になってます。 これは「秋田風土記」の間違い? と私は疑っています。 江戸時代の地図によれば、普門寺は皈命寺の西隣にあったはず[詳しくはこちら]ですので、 順路的には、東から巡って来て まず東にある皈命寺、 次にその西隣の普門寺に参詣して打ち止め、となるのが自然のように思いますが‥

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33:皈命寺

「皈」は「帰」の異字体です。 なので「帰命寺」という表記もよく見かけます。

 『広報あきた』(vol.505;1971/11/10)に「正月十六日の札打ちの末寺として広く市中に知られております。「今迄は親と頼みし笈摺をめぎて納むる」と刻された石碑が堂前に建ち、また、俳聖吉川五明のひときわ立派な笠付きの石碑が人目を引きます」と紹介されています。 『広報あきた』(vol.876; 1982/03/01)にも「最後は八橋の帰命寺」とあります。 しかし一方では 『広報あきた』(vol.641; 1975/08/20)に「泉の熊野神社は‥(略)‥同社から始まり手形を回って寺町八橋の普門寺で終わります」とあり、普門寺で終わる、とする資料も1970年代になってもまだ存在しているようです。

 もとは それなりに広大な境内をもつ寺だったはずですが、現在は境内がかなり狭まっており、それゆえ 見落としがちな場所にあります。 具体的な場所などについては[秋田の札打ち]という ブログが参考になります。 [江戸時代の地図はこちら]

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