自分用のメモということで、本書のどのへんに、だいたいどんなことが 書かれてたかという覚え書きです (概要をまとめて よく見えるところに出しておかないと、読んだ内容も、これを読んだことさえ 肝心なときに思い出さないことがありますので‥)。 ついでに簡単なコメントをつけてることも ありますが、メモなのでコメントは非常に簡単なものに留めてます。
半跏思惟像は7〜8世紀の朝鮮、日本で流行。 朝鮮日本以外では弥勒の半跏思惟像は希少。 日本の半跏思惟弥勒信仰はせいぜい奈良時代まで。
[Table of Contents]紀元前2〜3世紀頃? 弥勒信仰。兜率天にいる弥勒が56億7千万年後に 「下生」して、龍華樹の下で三回説法して、釈迦の救いに漏れた人たちを 残らず救済する、という信仰。しかし56億年後は長すぎるから、 信者自身が兜率天に上がり、56億年後に弥勒とともに下生するという 「上生」信仰も生まれる。
関連する経典は古い順に『仏説弥勒大成仏経』(成仏経)、 『仏説弥勒下生成仏経』(下生経)、 『仏説観弥勒菩薩上生兜率天経』(上生経; これは中央アジア産?)の 3つが中心。
『成仏経』は弥勒下生を描く。人の寿命が84000年になったとき、 平和で豊かな時代が、そこに弥勒が現れ、出家成道、三回説法、 のち鶏足山にて大迦葉から法衣を受ける、と。『下生経』はほぼこの要約。
『上生経』は兜率天の描写。金色で光り輝く弥勒は結跏趺坐(半跏思惟ではない)
[Table of Contents]インドで弥勒の出現が確認できる(現存する)最古の資料は 『スッタニパータ』や『阿含経』(BC3〜2C)。ただ『スッタニパータ』にでてくる アジタ、メーッテーッヤと後世の弥勒とは性格が大きく異なる。 仏像としての弥勒はクシャーン朝(1〜3C)。
『リグヴェーダ』で、友愛、太陽の友愛によってものを育むといった側面を表す 神とされるミトラ神。神々のなかでそれほど重要視されないが、 『リグヴェーダ』内で最も古い神々の一人で、イランのゾロアスター教では 重要な神。ローマのミトラ(ミトラス)教との関係は‥よくわかっていない。 さらに、ミトラ神が弥勒(マイトレーヤ)の前身か? というのも明らかに なっていないので、それらを結びつけて考えるのではなく、 ひとつの可能性として以下‥
アーリア系インド人とイラン(ペルシャ)人は、ともに西から移動してきたが BC15C頃に分かれ、片方はインドに、他方はイランに定住。 イラン人たちの宗教がゾロアスター教。その中にミトラ(ミスラ)神がいる。 最高神アフラ=マズダが太陽神ミトラを作った、と。 (なおコータンではアフラ=マズダと弥勒が同一視されてるらしい。 コータン出土『ザンバスタの書』p.129)
ミトラ(ミトラス)教。2C頃まで、ミトラ教はローマの兵士たちの中で かなり広がっていた。兵士が個人的に入信し、特有の秘儀をうけていた、と。 ミトラ教が初期キリスト教形成に大きな影響を与えた可能性は否定できない。
「救世主」について。当初(BC6C頃) ユダヤ人たちが想定した救世主とは、現世利益。 おそらくアレクサンドロス東征期のあたり(BC2C頃)に、ギリシャ的思想と ユダヤ的思想とペルシャ的思想がグチャグチャに混じり合うことになり、 その結果、ユダヤ思想にも「来世」観念が入り込んだのではないか、それが イエス的な救済、死後の魂の救済という考え方につながったのではないか、と。 そして1〜2C頃には、死後の魂の問題、人格神に魂を委ねて幸福になることを 願う「帰依」が宗教的趨勢となってくる。浄土思想もそうだし。
弥勒はたぶん、1〜2C頃にミトラ神と同一視されたのち、救世主・下生という 役割が追加されていった、と。そんな感じではないかと。 証拠はないがヴェーダ、イラン、ローマ‥と、西方と繋がっているのではないかと。
[Table of Contents]『スッタニパータ』では、アジタとメーッテーッヤが弥勒だとは書いてない。 その同一視は『阿含経』の頃からか。初期経典の時期の弥勒は 釈迦の弟子で、将来に如来となる、という設定。
その後、大乗仏教の時代になると 『賢愚経』 『法華経』 『維摩経』 『大無量寿経』 と、弥勒は菩薩の代表者のような扱いとなる。 そして 『華厳経』。弥勒は釈迦のつぎの仏とは語られているが、そこには 上生信仰、下生信仰、どちらの話も出てこない。 上生信仰は阿弥陀信仰の影響によって後付けされたのでは?
仏像の起源のひとつガンダーラ。すでに弥勒信仰は盛んだったらしい。 弥勒像の多くは、左手に瓶を持っている。この瓶は水瓶とされるが、 筆者は油壺ではないかと推定する。未来仏=救世主=メシア=油塗る人、という イメージがあったのでは? と。また右手も掌を正面に向けた印相が多い。 人々に祝福を与える印相? (たぶん後代の施無畏印とは違う)。 このスタイルはマトゥラーも同様。バラモン教ヒンドゥー教系の神像は 仏像以後に作成されるようになったが、ミトラの神像は作られず。
[Table of Contents]仏教パンテオンの話。たくさんいる仏菩薩たち。
[Table of Contents]兜率天上生信仰、曇鸞のような実践上の浄土教思想はたぶんインドになく、 中国起源か。中国では北魏まで弥勒信仰が強かったが、唐頃には 阿弥陀の浄土教が強くなった。 上生・下生については、まず下生信仰があったが、しかし何億年も後、 つまり実質は決して下生することのない弥勒仏の存在はちょっと中途半端。 浄土教の影響で上生信仰が追加されたか? と。
下生信仰について、そもそも仏が降りてきての救済という救世主的発想は 仏教にないもの。釈迦仏は天から降りてきてない。 やはり西からの影響では? と。
弥勒の来た道 [ 立川武蔵 ] |
弥勒東漸には3つのルートがあるのではないか。
アフガニスタン、 バーミヤーンの石窟寺院。2001年にタリバンにより破壊された西大仏は 弥勒仏ではないか? と。対する東大仏の釈迦仏は、太陽神のイメージ、 天上への救済的イメージがあったのではないか、もしそうなら、 非インド的な信仰要素が弥勒信仰に混在する可能性はあったということ。
中央アジア、ダレル、コータン、クチャは弥勒信仰が盛ん。最高神、救世主イメージ。
チベット、ラダック。弥勒は大日如来に族する位置づけ。巨岩に彫られた弥勒像。 チベットには大きな弥勒立像も結構ある。
ネパール、カトマンドゥ。頭上に仏塔を戴いた弥勒像。これはおそらく涅槃、つまり 釈迦仏の後継者を意味するシンボルだろう。
中国。まず中国仏教史を以下の4つに区分する。(1)伝来初期。〜3C (三国〜西晋)。 (2)定着期。4〜6C (〜南北朝)。(3)成熟期。6〜9C(隋唐)。(4)民衆への浸透期。 10C〜(宋〜)。中国の弥勒という観点だと (1)(2) が中心。『下生経』の最初が(1)の時代。 他の『下生経』『成仏経』『上生経』などが(2)期。法顕も(2)期。 また(2)期の北朝の北魏国の龍門石窟では弥勒像が盛んに作られた。主目的は 故人の供養が多い(阿弥陀浄土思想はまだ普及していなかった点も大きいか?)。 龍門の弥勒像の特徴は、交脚像が多いこと。当時は上生信仰が強かったから? たしかに後代になると上生信仰は阿弥陀浄土思想に取って代わられるため、 下生信仰の傾向が強まるから、それと関係している? よくわからない。 下生信仰の強まりが救世主信仰となり、いろんな事件・政変へとつながる。
中国の上生信仰は、インドのものとは変質している。インドの上生信仰では、 上生するのは自分自身。それが中国では故人が弥勒浄土に生まれるようにとの 追善供養・先祖供養に変わっている(本来、経典は(世俗や家族を捨てた)出家者の ためのものだから、先祖供養は本来的ではない)。阿弥陀浄土信仰と近すぎで、 それゆえ兜率天も弥勒浄土、浄土化していくことに。 中国(4)期に出てくるのが布袋=弥勒菩薩。
朝鮮。弥勒信仰のあり方について。 高句麗では阿弥陀浄土信仰とほぼ同一視。新羅は花郎。百済は弥勒寺という巨大寺院。 朝鮮式の冠のようなもの(仏塔の平頭ハルミカーに相当?)をつけた大仏と、半跏思惟像。 半跏思惟像の右手を右頬に近づけて(接しない)仕草は、「気」を巡らす行法のイメージが あったのかも。
[Table of Contents]マンダラの中で弥勒は重要な地位にない。ただ一つだけ略称『念誦法』で説かれる マンダラの中尊が弥勒仏であるが、『念誦法』はたぶん中国産 [ SAT 慈氏菩薩略修愈誐念誦法 (No.1141) ] 。弥勒と大日を同体とすることから、下生を待つのでなく、 修行により現世で弥勒と見えるためのもの。
[Table of Contents]最初は上生信仰がメイン。というか奈良末期(8C末)まで、下生信仰があった形跡は 確認できない。自身の死後と、故人の供養。 弘法大師の弥勒信仰も有名だが、具体的に何を信仰してたか? はよくわからない。大師入定信仰に ついても、いろいろな要因があったろう。経済的要因とか、民俗信仰的要因とか。 また修験では蔵王権現=弥勒菩薩という信仰があり、 それがのちに富士講身禄の流れにつながった?