自分用のメモということで、本書のどのへんに、だいたいどんなことが 書かれてたかという覚え書きです (概要をまとめて よく見えるところに出しておかないと、読んだ内容も、これを読んだことさえ 肝心なときに思い出さないことがありますので‥)。 ついでに簡単なコメントをつけてることも ありますが、メモなのでコメントは非常に簡単なものに留めてます。
近代スピリチュアリズム(近代スピ)とは。1848年のポルターガイスト事件(ハイズヴィル事件)に 端を発し、交霊会(セアンス)が欧米で大流行したというムーブメント。20世紀初頭くらいまで。 心霊研究というのもあるが、違いとしては 「スピリチュアリズムと心霊研究の違いは、前者が死後生存と霊界通信を前提とするのに対して、 後者はそれらを(自然)科学的に説明、あるいは証明しようとしたところにある」(p.5) 点、つまり両者は共存可能。著名人たちの近代スピに対する態度も まちまちであったが、 「さまざまな理由で近代スピリチュアリズムに否定的だった人々においても、人間の霊、 魂としての死後生存を否定し去った人々は、あえていえば、むしろ少数派だった」(p.10) 、つまり、当時の近代スピの周辺で 人々の関心の中心にあったのが「霊界通信」であり、 それに対する人々の態度は さまざまであったが、その前提となる「死後生存」を 多くの人たちは受け入れていた、と(p.10)。
時代的背景としては、ハイズヴィル事件が起こった1848年は、じつは「共産党宣言」と同じ年で、 つまり世の中の啓蒙主義、科学主義、世俗主義、唯物論などの流れの強まりに対応している ようにも見えるが、直接の関係は見えず、 「唯物論の広がりを、現代人の病とみなした「霊」や「高級な存在」たちが、ある志向を もった人間たちに対抗的な霊思想を吹き込んだといった主張」(p.14) も出てくるほど。 ‥でも、なんで、それまでは滅多になかった霊界通信が、急に、その時期に頻発するのか? の 問いへの答は「時が満ちたから」的な。
近代スピへの日本の対応。 井上円了『妖怪学講義』(1890年代)では、無論、迷信という扱い(p.16)。 しかし明治末期の1910年代だと肯定気味な評価も出てくる。柳宗悦など。しかし柳は、のち 近代スピをめぐる論争(死後生存・霊界通信の是非)の単調さに満足せず、神秘主義研究へと進んでいくが‥。 また同時期、東京帝大の福来が透視実験を行なったりしたが、その話題は学問というよりスキャンダル的な方向へと 向かっていく。さらにその後、浅野和三郎らが、近代スピと大本を接木し、近代スピは 古代的な正しい霊信仰の復活と捉えたりした(p.18)。これは大本系新宗教に共通する考え方。 それゆえ、近代スピ思想が普及してカトリックや民間信仰との習合がかなり進んでいる ブラジルで、これら大本系の新宗教団体が布教に成功していることは、理解しやすい(p.22)。
一口に「近代スピ」と言っても、かなり幅広い事例がある。支離滅裂荒唐無稽な低級モノから 哲学倫理的に高度で一貫し説得力をもつ内容を伝える高級なものまで。本書では高級なものを対象とする。 また「マイヤーズ問題」について、比較宗教学との関係について、念頭におきつつ話を進めよう。
[Table of Contents]宗教学の観点から近代スピを論じることの少なさ。 近代宗教学の祖・ミュラーは近代スピをどう見ていたのか。
近代スピの代表ともいえる『霊訓』(1883)を筆記したモーゼスがオックスフォードで学生(神学)を していたとき、ミュラーも教員(言語学東洋学)として同じ学校にいたが、どうやら 接点はなかったらしい(p.30)。ミュラー『宗教学概論/入門』(1873)と『霊訓』は、 考え方は割と近い(当時の時代思潮というやつ?)。 諸宗教の比較によって「宗教そのもの」を求めるべきとの主張 (宗教とは「無限なるものの認識」)(p.33)。 そしてどちらも、既存の宗教関係のいろいろなものはほとんどゴミの山で、「しかしその ゴミの下には宝石がある」(p.35) 「諸宗教は「宗教そのもの」の変奏であり、したがって互いに比較考量できる」(p.42) (「比較」って、やはり「原初形態は同じ」はず、 その原初形態をいかに取り出すか、というものだから‥ p.39)という考え方 (だからミュラーは神智学に対しても「同じ気質をもっている」と最低限に擁護.p47)。 そして真理、進歩、発展、理性‥という言葉の愛好。 神への信頼と、人間の不完全さの強い自覚(p.40)。 --- このへんはミュラーが「私の全人生は宗教的確信を求める苦闘だった」と語る、 そういう態度ゆえか? (p.49) またミュラーが死後の魂の個性の存続を信じていた点、愛する人々との死後の再会を 確信していた点(p.53)も近い。けどミュラーは「生命の不滅性」を確信していて、 そこに議論の余地がなかった点はスピと違う。
あとミュラーの比較宗教学の対象は自然宗教で、 超自然宗教とか啓示宗教は合わない(p.58)。 大自然の営みや、道徳的倫理的行為を「大きな奇跡」と高く評価し、 啓示やいわゆる「奇跡」を「小さな奇跡」と低く評価(p.59)。 これに対し、スピでは逆に「小さな奇跡」を必要視。 霊界通信などの「啓示」がスピに不可欠という点もあるし、 啓示には霊魂の死後存続を示すという啓蒙的意義もある(p.61)。 とにかく『霊訓』は比較宗教学を高く評価していて、ミュラーの考えと近いはずだが、 モーゼスは何故「霊言」にこだわったのか。神学者ゆえ「異端」判定されるのを怖れたから、 との説もあるが、いまいちピンと来ない‥(p.64)
[Table of Contents]モーゼス『霊訓』に曰: 「己れの思考の産物と思い込めるものも実は背後霊の働きかけの結果なのである」(p.67) これはカルデック『霊の書』(1856)でも同じ。 ‥しかしモーゼス自身も疑っていた。 語っているのは霊なのか(潜在的な自己では?)、霊の語る内容は正しいのか(霊的存在を認めるとしても、それは邪悪な存在の罠じゃないのか? つか、お前は何様?と)、と(p.70)。 たぶんここで問題となってくるのは「霊」、すなわち「私に働きかけている影響力」が、 「内なる他者」なのか、あるいは自分とは異なる 一個の独立した存在なのか、ということ(p.75)。 今だと内的対話=自問自答=内なる他者 とするのが普通だが、これもその通例に当てはまるのか否か。
「霊」と、もの言わぬ個的な 「守護霊(guardian; 背後霊 angel messenger..; 指導霊 inspiring guide)」(p.77)。 人は正邪、上下、好意悪意のさまざまな霊に取り囲まれるとされ、この守護霊の存在が 人間の生活にとって最大の福音とされることが多い(母親のごとし)(p.79)。 祈りも守護霊経由とされる。この考え方は「ソクラテスのダイモン」と同じように、 受け入れられにくいが、しかし人は 「人間を護る上位の存在がいる」世界観を持つ権利はある(p.83)。
「霊」の主語性を前提とした近代スピに対し、自然科学的な心霊研究ではそれが問題とされた。つまり (1)受信者自身の心から、(2)別人の心からテレパシーで、(3)肉体をもたない何物かから、 (4)本当に死者から、この4つのどこから「霊」は来たのか、と。 どれも最終的には(1)経由となるが、では、人間活動の主体性はどこまでか、 人間活動のほとんどは霊の干渉の結果であり人間の主体性はほぼ皆無という話にならないか、 という話は残る(p.85)。 ロッジなど自然科学者が普通に「霊」の実在を証明しようとしたが、これは当時、 自然科学の領域の急激な拡大期にあったため、自然科学が精神世界へも進出しようとしていた、 ということ(p.86)。 なお心霊研究系の人はケンブリッジ系の人が多く、催眠術の実験等により 心霊現象を心理学的に説明しようとした。
作用するのは「霊」か人間の「隠された力」か。 人間以上の知的存在はないと考えるか、 神・天使・霊といった不可視の知的存在があると考えるか。 どちらも自明ではないため、決め手に欠く(p.91)。 ちなみに地動説・天動説の譬喩を取る場合、人間中心的な立場を取る考え方は 天動説に近いことになってしまう(p.92)。また近代スピでは「霊」たちの 自分の生前の身元が重視されたが、現代のニューエイジ流の霊示とされるものは 生前の身元への関心が弱く、「マスター」とか「バシャール」とかが精々。 関心が変わってる。
「隠された力」派の人が、「霊」派に変わることもある。たとえば コリンウィルソン(1988)『超オカルト(オカルトを超えて)』(p.96)。ここでウィルソンは ユングの「集合的無意識」というのは要するに「霊界」の言い換えで、 「独立の存在」というのは「霊」の言い換え‥など、つまりユングは 「オカルト」概念を科学用語で正当化しようとしていたこと、 「独立の存在」つまり「霊」の存在を信じていたこと、 シュタイナー、スウェーデンボルグが入眠時状態を重視したことなどに言及したあと、 霊の実在をしぶしぶ認めている(p.99)。 曰 「無意識は「神話の領域」であり、「<隠された力>の領域でもある」、そして 「それはまた<霊たち>の領域でもある」(p.101)。 肉体から独立した能力(隠された力)と、ある種の死後生存(霊の実在)というのは、 つまりは、それを主張する人の嗜好の差、みたいな感じ?? なお「霊の実在」派(スピ的?奪魂型?低級的?)のカルデシズムは南米で数千万の信奉者をもち、 北米のニューエイジ思想(オカ的?憑霊型?秘儀的?)は心理学と習合し「隠された力」派ぽい(p.102)。
[Table of Contents]1980年代に起こった「臨死(ND)」「臨死体験(NDE)」ブーム、そして「脳死」論争。
臨死研究の出発点に位置づけられるのが ムーディ『かいまみた死後の世界』(医学系)。その他にも キューブラー=ロス(1969)『死の瞬間』(医学系)、 オシス、ハラルドソン『人は死ぬ時何を見るのか』(超心理学系)。 他は、まあ、類書(p.109)。 臨死体験の基本は「光」との遭遇、安心感、蘇生後の人格の善化など肯定的なものが多いが、 少数ながら否定的なものもある。医学系アプローチのが主だが、これは超心理学系からは 死後生存の問題、また「超ESP仮説」(隠された力)への配慮が足りなく見える(p.112)。 というか、医学系はそこに踏み込んでない。 超心理学のアプローチだと、「臨終時の幻(deathbed visions)」が主テーマになる。 オシスらの研究で、アメリカ人とインド人が見るビジョンの「中核的現象には 文化を超えた安定性が顕著に見られる」(p.115) ようだが、しかし、それでも根本的な問い: 臨死体験は、超自然世界の体験なのか、幻覚妄想にすぎないのか --は見えない。 超ESP仮説は あまりに応用範囲が強すぎて 臨死体験に関するすべての現象を 説明できてしまう点に問題がある。死後生存仮説については、それを信じるべきでない、 目をそむけよ との社会的圧力(心理的、思想教育的、宗教的、社会的な抵抗)がある(p.118)。
「テレパシー」「サブリミナル」などを造語したマイヤーズ。マイヤーズのサブリミナルは 「霊たちの世界」、心的で物的であり、生きている人間、死にかけてる人間、死んだ人間が 影響を与え得る世界というイメージ。臨死体験研究も、死後生存仮説との関係という 中心的問題については、理論的にはマイヤーズの枠組みを出ていない(p.123)。 そしてテレパシー。霊魂仮説を阻む超ESP仮説はテレパシー説を理論的前提とするが、 マイヤーズ自身は テレパシーだけで全部を説明できないと考え、 それゆえ霊魂仮説=死後生存仮説を採用せざるを得なかった。しかし どっちにしても、 超ESP仮説も霊魂仮説も、どちらも「マイヤーズ問題」の範疇に入ってしまう。
19世紀末頃の心霊研究の到達点: ガーニー、マイヤーズ、ポドモア(1866)『生者の幻影 Phantasms of the Living』と、 マイヤーズ(遺稿)(1903) 『人間個性とその死後生存 Human personality and Its Survival of Bodily Death』(p.125) (どちらも事例がとにかく膨大)。 『生者の幻影』(1866)について --- テレパシー。それには生きている人(含、臨死)の幻姿出現も含むが、 それを「偶然」と片付けるのは無理、自然界の事実である、と。ただその解釈について、 ガーニー、ポドモアはテレパシーを潜在意識仮説で説明しようとするが、 マイヤーズは霊魂仮説も意識していた(p.127)。このような解釈の相違は、そのまま現在の 臨死研究でも変わっていないし、マイヤーズも「これらの心身問題が繰り返し回帰しているのを、 私たちは見出す」と言ってることから、それ以前からすでにその堂々巡りが続いている(p.128)。 この問題は、『人間個性とその死後生存』(1903)でも同様。事例のうち、テレパシーなどの 生者のサブリミナル説で説明できるのはそれとして、それで不十分なものは霊魂仮説を考慮すべき ではないか、との主張にとどまっている。踏み込んでない。なかでも「死者の幻影」の章。 これは現代の臨死研究に直結する部分、「生ける古典」であるが、この章にそうした問いが 集中している。
それから100年経過し、救急医療などの発達で「臨死」が起こりやすくなった現在、 臨死体験の経験談が急造、当事者が「死後生存」を確信するという、 心霊研究よりスピ的な回心報告が強調される(p.131)。ただ100年前の心霊研究と、 現代の臨死研究は連続していない。それぞれ独立に行なわれた研究が、一致した結論に達したケース。 そして研究に際しては、確信、拒絶、嘲笑、躊躇、勇気、使命感、回心‥などの言葉が飛び交う点も、 一致している。 また体験者・証人たちが信頼すべき人物であることの強調(名士、知識人、誠実な人柄、健康など)。 このテーマの回帰性の強さの証明か(p.132)。 「「幻影」であれ「臨死」であれ、超自然の主題に関心をもって研究を進めた人々には、 「死後の世界」に確信をもつに至るという、いわば直線コースがある。そしてそこから 離れていくには、いくつかの分岐点がある。まず、現象を現象として受け止めない守旧派コースへの 岐路がある。‥(略)‥ つぎに、現象や問題を受け止めた上で、「新しい現象を縮小変形」して、 「自然科学的解釈」で「簡単明瞭な解釈」をすること、それによって「例外的な出来事」を、 「従来のものにあてはめ」てしまう、還元派コースへの岐路がある。‥(略)‥ そして、最後で最大の岐路として、いかなる超常的な現象も、すべて生きている人間の 潜在的機能で説明する超ESP派コースがあって、ここにマイヤーズ問題が繰り返し回帰する」 (p.136) これまでの心霊研究の膨大な事例研究は、こうして潰されてきたのだ(p.137)。
脳死と近いものとして、「意識(?)」が肉体から離れる「体脱」研究がある。 体脱は意図的に何度もできるから、モンローなどは体脱を技術化(理性的な左脳をおさえる)し、 意識変容の技法。前世療法は、多数の人生の生き死にを何度も繰り返し追体験させるため、 いわば編集された中継録画のような報告。その追体験には臨死体験も無論あって 「死の瞬間の前後に意識体が体を離れ、上に浮かんでから、すばらしいエネルギーに満ちた 光の方へと引き寄せられてゆく」(p.138) とまとめられる。 「死後生存への近代のアプローチおよびその周辺をみるとき、この問題のもつ一つの特徴が 浮かび上がる。注目に値するというべきだろうが、自然科学的な関心をそそる現象が起こり、 そうしたアプローチが繰り返される一方で、自然科学的な証明が原理的に不可能、あるいは 無意味なことが、しばしば関係者によって主張されている」(p.139)‥つまり、 受け入れたい人はそれを受け入れることができるし、 拒絶したい人はそれを拒絶できる状況であり続けている。 これら以外の、臨死研究と関連する諸問題としてまず、臨死研究が進んだ場合、いわゆる 「脳死」とされた状態からの蘇生可能性の問題。つまり「死」の判定がもっと先延ばしに なる可能性があるはず。しかし臓器移植医療とは違って、脳死関連の医療の進歩はあまり 考慮されない傾向がある。生命倫理が「臓器利用の促進」に関する実用的手続きにすぎない、 というのでないなら、臨死研究にもっと注目すべき(p.141)。 脳死体験がもつ教育的な効果の問題。体験がそもそも何なのかというのはさておき、その体験は リアルであり、その人のその後の人生に大きな影響を与えることもよくある (死を以前ほど怖れなくなる、など。実存的インパクト)。 ただ日本の医学界では臨死研究はダメ。ジャーナリズムでは立花隆で有名に。 そしてそれをNHKや一般誌が取り上げたところ大反響があったことなどから、 臨死とその周辺については、一般に思われている以上に大きな関心が持たれているのかも(p.143)。 「生」を至上価値とする生命倫理ははたして自明なのか、という問いは迂回されてきたが‥。
[Table of Contents]輪廻とは、最終的に善悪の計算が合うはずとの公正・正義の神話(p.145)。輪廻神話には (1)インド、エジプトなどの伝統的宗教によるもの、(2)東洋宗教が近代西洋において 再編されたもの(神智学など)、(3)近代スピの霊界通信によるもの、 (4)スピとニューエイジの中間、エドガーケイシーのリーディングによるもの、 (5)精神分析の催眠療法の前世療法 --- この5つの文脈。(1)(2) はここではパス。
(5)前世療法。催眠療法の副産物。ホイットン(1974;もともと輪廻を確信)と ワイス(1980;もとは輪廻に無関心)が先駆者。どちらも催眠療法の手違いから患者の 「中間生」「過去世」を発見してしまう(p.149)。ホイットンが聞きだしたところに よると、中間生は高度な知的存在である「裁判官」「ガイド」の助けを借りて 過去生を分析、学習して魂の成長・進化を目指すという(p.151)。他方ワイスは 催眠療法中に患者が「‥時代は紀元前1863年」と言いだしたことに端を発している (ケイシー系の影響が、たぶん、ある)(p.154)。中間世にいる「マスター」: 高位の霊の存在、そして中間生で発揮される「高我」:高位の潜在能力の存在を ワイスは示す。当時は転生に対する人々の関心が高く(アメリカ人の3人に1人くらいが 転生を信じていた)、それゆえ前世療法は定着、大衆化(p.156)。ソウルメイトとかにも。
(4)エドガーケイシー(1877--1945)。現代アメリカの輪廻思想の権威。前世療法の原形。 もとは催眠状態になったケイシーに自分の健康を診断させたら成功、そこで他人の健康についても 診断させてみたらそれも成功‥という感じでリーディング(フィジカル・リーディング)を 1901年から行なっていたが、1923年に他人の前世について語りだした(ライフ・リーディング)、と。 ただケイシー自身は輪廻的世界観にあまり肯定的ではなかった(p.161)。 ケイシーの転生説は解脱志向でなく「よりよい来世」志向、転生がない状態に達したときは 「地球以外の‥‥別の高度な星系」に移行、という感じ(小学校を卒業したら中学校に行く、的な イメージ?)(p.162)。ケイシーの輪廻説、「人は蒔いたものを刈り取らねばならない」という 考え方は、その後アメリカにかなり浸透した。ケイシーの影響で、アメリカでは 前述の「前世療法」、また輪廻証言者などの調査が大学などで行なわれるようになった。 なおケイシーのリーディングは一体何を読んでるのか? については「潜在意識」「魂の心」 などと呼ばれるものを見ている説と、「アカーシアの記録」(アカシックレコード)を 見ている説があるが、どちらにせよ、前世療法で語られたような「ガイド」「マスター」的な 存在は明示的には述べられていない(p.164)。それに普通、あちらの世界からの語りに対しては 「あなたは誰か」と執拗に問う人々がいるのが普通だから、ケイシーの周辺でそれ系の話が 全然ない点については考察の余地あり。
(3)近代スピ。(a)シルバーバーチ(1920頃)、(b)マイヤーズ(1920頃)、 (c)カルデック(1850頃)。この順で。--- (a)シルバー・バーチ。バーバネル氏を 霊媒として、口頭で語る。シルバーバーチの背後には、さらに高度に進歩した 霊的存在者たちがいるらしいが、シルバーバーチによれば 輪廻説は魂の進化のため、「魂の教育と向上」のためにあるとのこと(p.170)。 (b)マイヤーズ(と名乗る霊。つまり3章に出てきたマイヤーズではなく、その死後存在だと 主張する霊。霊媒は作家のカミンズ)。『不滅への道』(1932)などの自動書記スタイル。 「霊の進化」「魂の旅」が主題。転生は、霊の進化のプロレスのほんの一部にすぎない。 思想的には「類魂」というやつ。20〜1000個程度の魂が「類魂」というグループを形成し、 ともに生涯の記憶と経験を共有することにより ともに進化していくというもの(p.175)。 「集合的無意識」「アカーシアの記録」的なものは「大記憶」と呼んでいるが、 そこは人間が直接コンタクトできるものではなく、優れた高級霊が ごく稀に‥という感じ。 (c)カルデック(霊媒はリヴァイユ)。『霊の書』(1856;近代スピの「原典」)など自動筆記。 この『霊の書』に出てくるのが輪廻思想。「人類の進歩は、正義と愛と奉仕の法を、 現実に適応する、そこから生じる。この法とは、来世への確信に基礎を置いている」(p.179)
輪廻論者たちが主張する公正・正義の原理は、極論すれば補償作用。 しかし唯物論・物質主義は倫理的に非常によろしくないため、それに対抗する 合理的理性的な倫理説として必要とされた(p.180)。 また「公平さ」というのはキリスト教世界にいる人たちにも魅力的(p.182)。 また近代の輪廻思想は「魂の進化」といった教育的な発達論と結びつく。 前世療法と近そうなものにソンディによる運命心理学・運命分析がある。 これは「家族的無意識」を想定し、前世療法の「前世」に相当するものが「祖先」に なるもの(p.182)。 また輪廻は この世、地上、つまり地球上に生まれ変わるのが基本だが、その場合 「なぜ、この小さな地球にそんなに何回も生まれてくる必要があるのでしょうか」として 輪廻を不要と考える人たちも出てくる(p.185)
〈霊〉の探究 [ 津城寛文 ] |
近代スピと神智学(などのオカルト)は、19世紀後半の西洋キリスト教社会における 物質主義・唯物論への対抗であり、 「生きている人間」以上(以外)の知性があるという前提(p.227)、そして 背景に (1)忘却された古代知の復活、(2)近代科学の急激な進展と「進化」の思想(p.187)。 両者はこれら共通点を持つが、かなり異なる位置付け。 たとえば(オカルト寄りの)エリアーデが編集した『宗教百科事典』(1987)では 近代スピ系はほとんど無視されてる。これはつまり、オカルトとは違って、 近代スピはどう扱ったらいいかよくわからないという点がありそう。 「シュタイナーは、「スピリチュアリズムの歴史」と題する講演(1904)の冒頭で、 この主題には「熱狂的な支持者と暴力的な反対者」がいること、反対者は 「きわめて激しく反対する」か、「迷信と呼んで嘲る」か、「軽い、気の利いた、 愚弄するような言葉で脇に払い除ける」かであること、スピリチュアリズムは 「そのような激しい感情を、ほぼ瞬間的に引き起こす」テーマであること、などを指摘している。 ‥(略)‥ 反射的な拒絶が起こるところは、タブーが潜んでいるポイントである」(pp.191--192)
近代スピと神智学(オカルト)の違い。