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[メモ] 東北地方の8世紀後半

題 [メモ] 東北地方の8世紀後半
日付 2015.2



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はじめに

770〜780年頃(奈良時代後半)、出羽および陸奥地方情勢はかなり不安定だったようです。

 この時期の『続日本紀』を見ると、わりと頻繁に出羽と陸奥の話が出てきて、 それがほとんど全部戦乱(叛乱)に関する話です。 (以下、単にページ番号で書かれているところは 直木孝次郎他訳注(1992)『続日本紀4』平凡社(東洋文庫548) における当該ページ番号です。)

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774(宝亀5)年〜775(宝亀6)年 秋田城から撤退?

 774(宝亀5)年1月20日、毎年正月恒例だった 陸奥出羽の蝦夷の朝貢拝賀について、今年限りで取りやめとの詔(p.37)が出ていて、 かなり不穏な雰囲気はあったんでしょう。(以下、奈良側の視点で書いてます。) --- 7月23日には日本海側の蝦夷討伐令(p.45)、25日には 陸奥国の蝦夷に桃生城を攻撃され陥落(p.45)(その後、将軍らに反対されながらも(p.46) 討伐軍を派遣したらしい。10/4に遠山村(登米?)を奪還)。陸奥国は 秋まで完全に蝦夷が支配(p.51)。出羽国についても翌775(宝亀6)年10月13日に 「まだ戦争中。3年間、鎮兵として996人派遣してほしい。それで要害を守りつつ、 国府を遷したい」との上奏。 関東地方から兵を集めて派遣したことは書いているが、国府移転を許したかは不明(p.58)。 秋田城周辺はかなりキツい状況か。

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776(宝亀7)年〜780(宝亀11)年 多賀城陥落

 翌776(宝亀7)年、2月6日に陸奥国から「この4月に兵2万を出して陸奥出羽の討伐を」との 奏上に兵4千を出して雄勝・陸奥西側に出兵(p.66)、 あと2月には志波(斯波)(p.70)、11月は胆沢(p.73)を鎮圧。岩手県、北上川沿いの中央部から南部。 このあたり、兵士を大量動員したのが効いたか、優勢気味。陸奥の蝦夷の投降者が増え、 九州に送ったりしている。しかし翌777(宝亀8)年12月になると、14日に志波(斯波)で敗退の報、 26日にも官軍不利の報が。‥しかし状況はよくわからないが、翌778(宝亀9)年6月25日に、 陸奥出羽戦争の論功行賞が。紛争は一段落ついたという理解か。
 780(宝亀11)年2月2日「覚鱉城」(かくべつ; 有壁? 衣川?)を作り、胆沢を攻めよとの勅(p.135)。 しかし2月11日には長岡(古川)に侵略されたとの報。このころ陸奥国の戦乱の舞台は宮城県北部か。 戦地が徐々に南下している中、 3月22日に官軍の呰麻呂(あざまろ)が叛乱を起こし、ついに多賀城まで落城‥(p.141)。 5月16日、これに対し討伐の大軍を送ることを勅(p.143; 6/28、戦果報告の催促(p.145)、 7/22 関東地方の徴兵と兵糧を多賀城に送らせる(p.146))。こりゃマジだ!

 他方、出羽について。 諸国から集めた武具を送ったり(p.142)、奈良政府に帰伏した渡嶋蝦夷と会うときも 油断するなとの勅を出したり(p.143)などの話題が見えることから、 小競り合い状態が続いていたと思われるが、8月23日に 「今この秋田城を放棄するのか、あるいは従来通り死守するのか」との奏上(p.149)。 その答に「しばらく軍士と専当官とを派遣して秋田城を守らせろ。由理(由利)も 秋田城に至るための大事な拠点だから兵を置き、連携して守備させよ」と。 つまりこの時すでに国府機能は秋田城にはなく、「河辺」にあったということ。 いつのまに移転? ここには「宝亀年間のはじめに」と書かれているが、でも 775(宝亀6)年10月には「国府を遷したい」との上奏があったので、それ以降?
 奈良政府の出羽地方の最前線基地は「河辺」、秋田城、あと雄勝、この3つだと思われるが、 それより南は平定済‥という訳でもないようで、780(宝亀11)年12月には 大室(尾花沢?)でも諍いがあった模様(p.155)。

 (ちなみに雄勝については「不孝・不恭・不友・不順の者があれば、それら を陸奥国の桃生・出羽国の小勝に配属し、風俗を矯正すると共に、辺境を 防衛させるべきである」(757(天平宝字元)年4月4日の勅) (小勝=雄勝) (直木他訳注(1988)『続日本記2』平凡社(東洋文庫489), p.244) ‥とあることから、当時、奈良政権における重要な軍事拠点があったことがわかります。 かなり命がけな矯正施設ですね‥)

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781(天応元)年 論功行賞

 この陸奥出羽における戦乱は、翌781(天応元)年に ひとまず一段落つく感じ。 といっても細かいことは全然わからず、 780年12月に討伐軍が「もうダメかと思ったが、神さまの力で なんとか逃げ果せた」(p.156)、781年元旦の詔には「陸奥出羽に従軍している 諸国の人民は、長期の兵役に疲弊し、家の産業の破滅してしまったものが多い」(p.157) など、あまり優勢に展開しているようにも見えない。また6月1日に「向こうは我が軍を警戒して 攻めて来ない状態でもあり、敵の首を一つも取っていないのに。それなのに何故に 軍を解散させて奈良に帰ろうというのか。朕は認めない」との勅(p.170)が出ていて、 大軍を送った効果で 敵が襲撃してくるのは止んだが、戦果そのものはサッパリ‥な感じに 思えるのだが。しかし次はいきなり 8月25日、藤原朝臣小黒麻呂が征伐の任を終えて帰京、論功行賞(p.177)という話。 他にも9/26、10/16に論功関連の話(p.178)があり、それでなんか一段落の感。

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まとめ?

 一応まとめると、つまり、8世紀の東北地方、 とくに秋田岩手の南側、そして山形宮城の北側のあたりは奈良政府と、地元勢力の はげしい攻防の舞台になっていたこと。そして奈良政府側は出羽国攻略の 最前線の拠点として「秋田城」を作ったものの、当時としては設置した場所が ちょっと奥すぎたため孤立しやすく、守るのが非常に難しかった。それゆえ 奈良政府側としては もっと近場の「河辺」まで撤退を余儀なくされた、と。 そんな感じでしょうか。

 あと付録ですけど、国府が秋田城から「河辺」に移動したのち、 秋田城近辺に住んでいた一般民について。「今まで歳月が積みかさなっても、[服属した 蝦夷や人民は]なおいまだに移住しようとはしない。このことを考えれば、人民が 移住を重荷としていることは明らかである」(p.149)と書かれています。 国府は移転したが、城下町はほぼそのまま。そんな感じだったみたいですね。

(781年あたりで疲れたのでそこで調査を中断してしまいました‥)


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