補陀洛はインド南方の海上にあり
[Table of Contents]観音様と海のつながり
補陀洛の位置について。「華厳経」の一部には「海上」とあり、
「大海原に囲まれて、ポツンと存在している島」という感じの
イメージで描写されています。また『大唐西域記』では
「南インド地方の、どっかの海岸沿い」となっています。
このように「補陀洛」は海との関連で描かれることが多いのですが。
それは何故なんでしょうか。
観音様と海との繋がりについては、法華経の
「かんのんさまの章(大雑把訳)」[*]に
ある以下の記述:
財宝を求めて船出した者たちの船が暴風でラークシャスの島に流されたとしても、一行の誰か一人が観世音菩薩の名前を呼べば、皆その島から脱出できる。とまあ、そんなこんなで、観世音菩薩は『観世音』と呼ばれるのだ。‥(略)‥世界中が武器を持った暴漢・悪人だらけになったとして、その中を、商人の一行が莫大な財宝を持って進むとする。彼らは、武器を持つ暴漢どもを見て恐れおののき、自分には何も頼るものがないと思うかもしれない。そのとき一行の主が『恐れるな! 声をそろえて観世音菩薩のお名前を唱えれば、この恐怖から開放されるぞ』と言って、皆に観世音の名前を叫ばせるとする。『南無南無、恐怖を取り除いてくださる、かの観世音菩薩様に』と。すると一行は恐怖から開放される。これが観世音菩薩の威力なのだ
これが商人たち、また船乗りたちの強い信仰を呼び寄せ、それゆえ「かんのんさま」と、
その住処である「ふだらく」は自然と波や海と関連づけられた、と考えられているようです。
また、中国における観音信仰のパイオニア(?)的な一人となった法顕(4c〜5c)
[*1]が、
インド旅行の際に何度か大嵐に遭遇、そのたび観音様をひたすら念じ続けたら助かった‥的な
エピソードがあって(鎌田1997.p.93)、それも「かんのんさま」と海を関係付ける要因の
一つになったのかもしれませんね。
(ただし、これは中国日本限定な話になるんですけどね。)
さらに、中国でのそのあたりの状況はわからないのですが。日本の場合は、
中国にある「普陀山」がそのまま「南方補陀洛」のイメージの原形になっているようにも
思われます。ここで「中国でのそのあたりの状況はわからない」と書いたのですが、
「普陀山」は古い時期から寺院等があったことは確かなようですが、時代の変化とともに
徐々に「かんのんさま」との結びつきを強めていき、唐代から宋代になって
大規模な仏教聖地化したらしい(鎌田1997.p.170)のですが、この「徐々に」といった
あたりのことがちょっと見えないですので‥。
(書きかけ)
註
- *註1
-
このページの内容とは直接関係ありませんが。
『法顕伝』における「外道」についてのページ[*]があります。興味がおありの方はどうぞ。
[Table of Contents]そして日本
そんなこんなで。日本では「ふだらく」はどこにあると考えられていたか。
ここでは12c後半〜13c初の人、
解脱上人貞慶(1201)の『觀音講式』における補陀洛の記述(の大雑把訳)を見てみます:
(観音様が仰せの)「我が浄土」とは、遠くは西方極楽、
近くは補陀洛山。その山は、ここから西南の方角、
大海の中にある。(『觀音講式』
[067]-125,
[065]-105)
ここでは「大海之中」と書いています。しかし同じ
貞慶は『値遇観音講式』(1209)(
[*])で以下のように書いています(大雑把訳):
南インドに近い秣羅矩吒という国の南浜海にある秣剌耶山、
その東に補陀洛迦山あり。我国からすると西南の方向か。
煙波のはるか彼方ではあるが、帆に風を受けての通行可能。([070]-39)
これは『大唐西域記』の記述そのままで、「海上」という感じにはなっていないのですが。
でもそれよりも何よりも「帆に風を受けての通行可能」という部分が目につきますね。
あ、行けるんじゃん‥。ということで、
日本では「補陀洛に行こう!」という「補陀洛渡海」の習俗が生まれ、
育ってくるわけです。
[こちら]
川村2000に「海の彼方にも、他界が海上他界として構想されていたことは
先に指摘しておいたが、それはどことも知れぬ島、あるいは向こう岸の彼方に浮かんだ島で
あったろう。いわば"海上の山"が、それだったといえよう」
(川村邦光(2000)『地獄めぐり』筑摩書房(ちくま新書246). p.71.) とあり、
その参考資料として小松和彦(1978)「海上他界の思想」『神々の精神史』が紹介されていますが、
小松1978は未見ですので、ここで言及される「海上他界」がこの補陀落山とどう関係しているのか、
あるいは関係してないのか、そのあたりのことは不明です。