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西院河原地蔵和讃について

「西院河原地蔵和讃」 [URL]
(賽河原、賽の河原、佐比の河原‥とも)
に関するメモ。まだ整理できてないですが‥


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冥途の道のり(1:〜鎌倉)

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せっかくなので、すこし具体的に「冥途の道のり」を紹介しておきます。

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飛鳥時代

まず『古事記』を見てみます。712(和銅5)年完成なので厳密には奈良時代なんですけど、 その中に描かれる世界観はその前、飛鳥時代ですよね。

 「古事記」には冥途は出てこないんですけど。その冒頭のあたり、伊邪那岐命が 神避りました伊邪那美命を追って黄泉にやって来たときの話があります。 そこでの描写が、ひょっとして冥途の祖型だったりしないかな? ということで 一応紹介しておきます。

ここに殿の騰戶より出で向かへし時、‥(略)‥ 左の御角髪に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、蛆たかれころろきて、頭 には大雷居り、‥ (倉野憲司校注(1963)『古事記』岩波文庫, p.26)
状況としては伊邪那岐命と伊邪那美命が「まだ国造りの途中だ。一緒に帰ろうよ」「黄泉神に相談してみるから ちょっと待って。私の姿を見ないでね」と会話したところ。そして、 それを待ちきれない伊邪那岐命が自分の頭にあった櫛の歯を折って灯火して、 伊邪那美命の姿を見てしまった! すると蛆が‥(以下略) という場面。 ここで「灯火して」、それで伊邪那美命の姿を見てしまった! となっている訳ですから、まあ、 伊邪那美命のいた場所は真暗で何も見えなかったことは想定できそうですよね。 岩波文庫版では「騰戶」の注(p.26)の中に「古墳の入口が連想される」と書かれており、 灯りを持たない状態で古墳の中に閉じ込められてしまったような真暗さ、といった感じに 黄泉はイメージされているんでしょうかね。

 ちなみに「ヨミ」については以下:

〈ヨミ〉は〈ヤミ(闇)〉や〈ヤマ(山)〉と類義の語。 [ よみのくに【黄泉国】 || 世界大百科事典 第2版の解説 || コトバンク ]
このように解説しているのもあるみたいで、その真偽についてはよくわかりませんけど、 「ヨミ」は「ヤミ」と言われればそこは真暗で当然なのかもな、と思わないこともないです。

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平安初期

 まずは平安初期の『霊異記』(9c) (ここでは 原田敏明・高橋貢訳(1967)『日本霊異記』平凡社(東洋文庫97) を参照)。 これによると‥

法師が五人前に行き、優婆塞が五人、後ろからついてきた。道は広く平らで、墨縄で線を引いたように まっすぐであった。道の両側には幡を立て並べ、正面に金色の宮殿があった。 (『霊異記』中16.;原田高橋訳 p.106)
四人の使者がきて、連れて行った。はじめに広野を行き、次に急な坂があった。坂の上に登ってみ ると、大きな建物があった。‥(略)‥ 行く先に広さ一町ほどの深い河があ り、橋がかかっていた。‥(略)‥ 橋のたもとから三つに分かれた道があった。 (『霊異記』下22.;原田高橋訳 p.196)
前者は道が平坦で河なし、後者は上り坂ありで河あり。この時代、まだ冥途のイメージが 固まってなかったということなんでしょうか。 でも、とにかく死んだら 道を歩いてどこかに向かって行くというのが基本的な構図が、 すでにこの時期できあがっていたらしきことは確かなようです。

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平安後期

『法華験記』(中70)(11c)も見てみましょう。今度は孫引きです^^;

「はるかに冥途に向かって、人界の境を離れていった。深山幽谷、険難の高峰を越えて も、冥途への道は遥かに遠い。鳥の声も聞かず、わずかに暴悪な鬼卒の類がいるだけで ある。深い山を過ぎると、大きな河の流れがある。広く深くて畏怖させずにはおかない。」 (川村2000. p.151)
冥途まで山あり谷あり、かなり距離があるみたいですね。しかも鳥の声も聞こえず‥ 基本、音もなくシーンとしてる感じでしょうか[*註1]

 あと私の勝手なイメージでは、この冥途の道のりは ちょっと薄暗い感じじゃないかと 勝手に思ってるんですけど、 そのへんはどうなのか、今のところ私にはよくわかっていません。 まあ「冥途」の「冥」は「暗い」という意味ですから、暗さの程度はどれくらいかというのは 不明ですが、それなりに暗い感じの設定になってるんだろうな、とは思いますが‥。 少なくとも、上の引用では周囲の風景は見えているみたいですから、そんなに 暗い感じではないんでしょうね。

 同じ時代の他の文献を見てみても、『扶桑略記』(11c末)所収「道賢上人冥途記」だと

眼を四方に廻らして行くべき方を見るの間に (岩本1979, p.258)
このように書いていて、冥途の途中で周囲を見渡していることから、やっぱり 真暗という感じではなさそうだな、と想像できます。

 さらに。おそらくこの時代に作成されたとおぼしき 「地蔵十王経」を 見ても、言われるのは「寒さ」「空腹」ばかりであり、 明るさなどに関してはまったく言及がありません。 これについては、やはり 景色がわかる程度の暗さじゃないと、冥途世界がどんな様子かを語ることができないから、 だから冥途世界の様子を説明できる程度には 周囲を明るくしておかないとダメということなんですかね。

 ところで澁澤1999がこんなことを書いてました:

地獄が単なる黄泉国の薄明世界ではなく (澁澤・宮1999, p.9 (澁澤執筆分(オリジナルは『地獄絵』1974らしい)))
これを目にしたときにハッと思いついたんですけど。 日本古来の「黄泉の国」のイメージが「薄明」で、 この時代の冥途はまだそのイメージを引継いでるとか、 そんな感じなんでしょうか。このへん、今後の課題かもしれません。

 ところで。死んだ人はここを歩いて進むことになってるみたいですけど、 歩かないという選択肢は想定されていないんでしょうか? そのへんも、よくわかりません[*註2]

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鎌倉時代

中世期、鎌倉時代における冥途の様子ですが、 『宇治拾遺物語』(13c前半)に以下のような記述があるようです。 橘敏行という能書家が‥

にわかに 死んで、当人は死んだとも思っていないのに、たちまち怖しそうな者たちがやって来て、か れを搦め引きたてて連れ出した。 ‥(略)‥ そのうち、途中で、甲冑を着、眼光炯々として口は焔のような、鬼 かとうたがわれる武士、二百人ばかりと行き会った。武士たちは敏行と知って、引きかえ し、かれに先立って行き出した。 (石田瑞麿(2013)『日本人と地獄』講談社学術文庫, p.126)
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連れられて歩いている途中の景色はどうだったのか。それは何も書かれていませんので、 何も言えないところではありますけど。しかし、途中で鬼とおぼしき武士姿の者たちの 姿をバッチリ捉えているところから推測するに、たぶん、それなりに 周囲を見ることのできる程度の明るさはあったのでは? と妄想したくなりますけど、 どうでしょう??

 さらに鎌倉中期の「日吉山王利生記」には以下のようにあるそうです:

「鬼神二人、冥官一人」に伴われて行く途中、道に岸(がけ)があり、岸に狭い穴がある。 とてもはいれそうもなかったが、官人が押し入れるかと思った途端、蘇った (石田2013, p.170; ソースは「続群書2下・675上-下」と)。
これは閻魔宮から娑婆に帰る途中の景色のようですけど。

 ここでも「ガケ」と「狭い穴」はちゃんと見えてるようです。

 ‥と、ここまでの冥途については、明るさについてはあまり言及がないから詳細は不明なものの、 少なくとも景色は見えているらしいこと、また「真暗で何も見えない」的な話が あまり見当たらないことがわかります。

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