なんでこういうの書いたのか、今となっては不明ですけど。 でもファイルを整理してたら出てきましたので、 消すのも何なのでここに出しときます。(2013/1)
別名「アビジュニャーナ・シャクンタラム」
古典インド最大の詩人カーリダーサ(4世紀末頃)の手による戯曲で、
そのカーリダーサの代表作(すなわち古典インド文学の代表作)である。
戯曲の「あらすじ」というのは不粋このうえないような気がして なりません‥ が、とりあえずこんな内容です、ということで。 (以下、章のタイトルは辻訳のものをそのまま使っています)
狩の途中、苦行者たちの林(苦行林)に迷いこんだ ドゥフシャンタ王は、 その林の主のカンヴァ仙(前半はずっと留守)の娘(しかし 仙人はあくまで養父で、実親はアプサラス)の シャクンタラーに一目惚れしてしまう。 そして王はシャクンタラーのそぶりなどから、 彼女も自分に想いを寄せているのではないかと淡い期待をよせる。
シャクンタラーに魅せられてしまった王は、 王都に帰る気にもなれず、苦行林のあたりに居ついてしまう。 王は自身の恋心を友人のヴィドゥーシャカに打ち明けるが、 そうこうしているうちに苦行者がふたり現われ、 王にラクシャ退治を依頼する。
王が林に入っただけでラクシャどもは退散してしまう。 またこのとき王は シャクンタラーが病の床についていることを知る。
ひと仕事を終えたにもかかわらず、後ろ髪ひかれる思いで 林の中をうろうろしていた王は、友達に看病されている シャクンタラーを見つけ、 彼女らの会話に耳を傾ける。 彼女の病が自分に対する 恋わずらい であると知った王は、 シャクンタラーの前に姿をあらわし、 彼女ともどかしく恋を語る。
その後、シャクンタラーとのガーンダルバ婚を とげた王は「おもいでの品」として彼女に指輪を残し、 都に帰っていった。
王に対する恋心で胸いっぱいのシャクンタラーは、 苦行林に立ち寄ったドゥルヴァーサス仙への接待で 粗相をしてしまい、仙人を怒らせてしまう。仙人は 「この俺に無作法をはたらくのは、おまえが恋をしているから だな。だったら、おまえが想っている相手が、おまえのことを 思い出せないようにしてやる」と呪いをかける。 その言葉を聞いたシャクンタラーの友達は、急ぎ仙人に 許しを乞う。 その結果、仙人は「その相手が『おもいでの品』を見たら 呪いは解けるだろう」と語る。
しかし恋に浸りきっているシャクンタラーには、 この一連の騒動は何もわかっていない様子。
苦行林に帰ってきたカンヴァ仙は、シャクンタラーが 王と結ばれたこと を知って、たいそう喜び、 さっそく娘を王のもとに送り出してやる。
王の前に目通りしたシャクンタラーたち。 (このときすでに彼女は王の子供を宿している) しかし、 呪いのため、王はシャクンタラーを見ても 「記憶にない」を繰り返すだけ。 怒ったシャクンタラーは、「おもいでの指輪」を 王に見せようとするが、そこで指輪をなくしてしまった ことに気付く。
失意にくれるシャクンタラーを伴った一行が城を出たとき、 ふいに天女があらわれて彼女をさらっていく。
その後シャクンタラーは行方しれずになる。
シャクンタラーが落とした指輪は、ある漁師によって 発見された。その指輪には王の名が刻まれていたことから、 指輪は王のもとに届けられた。王はその指輪を 見た瞬間に、彼女の記憶をとりもどし、憂鬱な気持ちになる。
彼女への想いに身をすりへらす王のところに、 天の王であるインドラからの使者が訪れ、王に 出陣の要請をする。 王は快諾し、使者が用意した車に乗り込む。
無事にインドラからの要請を果たした王は、その帰りに マーリーチャ聖仙の庵に詣る。(この庵は天界にある。) 聖仙の苦行林で休んでいた王は、 ある子供に出会う。 その子供と話してるうち、 それが自分の子で あると気付いた王は、 無事にシャクンタラーとの再会を果たすことができ、 また同時に、すべての誤解も解けて、ハッピーエンド。
辻先生 (とくに何の関係もないけど、これほどの大御所になると、 こうしか呼びようがないよな) による本作品への評価ですが、だいたい以下のような感じです。
内容にひねりがないなあ、なんて思われるかもしれませんが、 辻先生によると..
「シャクンタラー」は、カーリダーサの戯曲中、 最も有名なものであるばかりでなく、サンスクリット劇中の 最大傑作であると認められる。古来その第4幕の中、シャクンタラーが 養父カンヴァ仙の庵に訣別を告げる場面が、特に絶讃を博している。 超自然の要素、ヒンドゥー教的社会観に煩わされている点を除けば、 筋の運びに照応が保たれ、苦行林の牧歌的生活、単純可憐の中に 女性の誇りを失わぬシャクンタラーの態度、ドゥフシャンタ王の 庭園におけるメロドラマ的雰囲気、王宮の生活、漁夫と巡査の応対等、 古今内外の名声に背かぬものがある。(辻訳,p.197.)
... といった事情があるらしいので、 まあ、しかたないといったところですかね。
古典 Skt. の美文体詩も戯曲も伝統的思想・信仰に支えられ、深刻な社会問題を 扱った作品や、苛酷な運命を内容とする悲劇は生まれなかった。 これには古代インド人の抱いた人生観が常にその背後にあったことを 忘れてはならない。彼らはカーマ「愛」・アルタ「利」・ダルマ「法」を 人生の三大目的とし、結婚後の家庭生活・家長としての利財活動・敬虔適法の 生涯を理想とした。(後にはこれにモークシャ「宗教的解脱」を加えて 四大目的とした。)この各項は特別な学問分野として発達し、詩人はこれに精通して その蘊蓄を作品中に披瀝しなくてはならない。(辻『文学史』,p.8.)
「シャクンタラー」の元ネタは『マハーバーラタ』(1.62〜1.69)にあります。 和訳ですと 上村勝彦(2002)『原典訳マハーバーラタ 1』ちくま学芸文庫. pp.262--289. が該当してます。 シャクンタラーの息子がバラタ、つまり『マハーバーラタ』の登場人物たちの ご先祖にあたる人物。そういう設定のようです。