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[memo] 日本人とバスク人は、似てるか?

題 [memo] 日本人とバスク人は、似てるか?
日付 2014.10



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奇妙な剣客の、奇妙な描写?

作家の司馬遼太郎さんが1962(昭和37)年に発表した「奇妙な剣客」という作品が あります。

 この作品には、 日本人がバスクに似ているらしいとの噂を耳にして、 何となくその噂に惹かれるように日本を目指す荒くれ男のユイズ(蜍児,蝦蟇)なる 男が出てくるんですけど。

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日本人とバスク人は似ていない

 ここで気になるのは、「日本人がバスクに似ているらしい」という話。 私は基本的には両者は似てないと思ってますし、本作の中でも 実際に日本人を見た ユイズはこう思ったみたいです:

 いま一つ意外だったのは、この連中のどの顔も、シナ人や閩族などにみられる顔ば かりで、バスク人に似ても似つかなかった。蝦蟇は、失望した。

(司馬遼太郎(2006)「奇妙な剣客」『真説宮本武蔵』講談社文庫, p.313)
似てない‥。やっぱそうだよな。

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日本人とバスク人は似ている

でも他方では、こんな描写も出てきます。ユイズが、日本人の剣客・伊藤甚三郎と 顔を合わせるシーンです。

「ほう、あれが南蛮人か。服装をべつにすれば、日本人のごとくある」

 蝦蟇はこのとき、伊藤甚三郎を見つけ、あっと口をあけた。似ている。

 髪の色、眼のかたち、あごの締まりざま、ほどよく焼けた赭顔、どこからみても、 故郷のピレネー山脈にいるバスク人そっくりであった。

(司馬遼太郎(2006)「奇妙な剣客」『真説宮本武蔵』講談社文庫, p.315)
こっちは「似ている」と書いてます。しかもユイズのほうも、伊藤が見たところ、 まるで日本人みたいな顔だな、と思ったみたいですけど。 (伊藤以外の人たちがユイズの顔を見てどう思ったか? というのは不明です。)

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実際、似ているかどうか

 ちなみに。実際、日本人とバスク人は似てるのか? についてですけど。 私個人の印象としては「基本、似てない。しかしバスク人の一部と、 日本人の一部で、似た感じの人は、いる」という感じです。 たとえば日本人の俳優の龍坐(りゅう すわる)さんとかは、 バスク人の自転車選手:スベルディア選手と 顔のタイプが似てるなー、と思ったりしました。 そんな感じで 顔のタイプが似てる人はいると思いますけど、 それは決して日本人の多数派じゃないよなー、という印象です。

[追記 2022.12] 2022年FIFAワールドカップ・カタール大会で、 日本の吉田麻也選手とスペインのセルヒオ・ブスケツ選手が似てるのでは? と 一部メディアで話題になってたみたいですね [ 吉田麻也とよく似たスペイン主将 「99.9%マッチ」「双子だ」と海外ファンも驚きの声 (THE ANSWER 2022.12.05) ] 。 まさかバスク案件?! と思ってごく簡単に見てみたのですが、 Sergio Busquets選手は カタルーニャ地方(バルセロナのへん)出身のようです。バスクとカタルーニャ、まあ近いといえば近いので、 バスクの中に一部日本人と似てる人がいるんであれば、 カタルーニャにも一部日本人と似てる人がいてもおかしくないかな、といった感じなんですかね。

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どこまでが創作?

 果たして日本人とバスク人は似てるのか、似てないのか。 戦国時代の人たちは、そのへん、どう思っていたのか。

 このへんを確認するには、やはり、この「奇妙な剣客」事件のベースになっていると おぼしき資料を、直接確認するしかありません。幸いなことに、本作の末尾には以下:

 この事件の記述は、日本の古記録では「伴天連記」にある。事件は、伊藤甚三郎に はおかまいなし。喧嘩は双方に死傷があったが、ことにポルトガル側に甚大で、船長 ソーサをふくめて十四人が斬殺された。

 すぐ松浦式部卿法印の命で仲裁が入っておさまったが、このためゴアにおける全ポ ルトガル船は平戸を憎み、以後寄港地を大村に移し、さらに長崎に転じて、平戸の繁 栄はうばわれた。

(司馬遼太郎(2006)「奇妙な剣客」『真説宮本武蔵』講談社文庫, p.316)
このような記述が わざわざ記されています。これはもう調べてみるしかないでしょ? ということで、さっそくこの「伴天連記」を当たってみました。

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戦国時代、平戸での乱闘事件

 該当しそうな記述はすぐ見つかりました。せっかくなので、以下に紹介しておきます。

其後船平戸に入、平戸にて日本人と しによろ 少の 口論有に、伊藤甚三郎と云人通り合、何事やらんと 云ければ、本より日本のものは口を知たる故に、少 のあきなひゆへにと申、甚三郎是を聞、売買故な らばしづまり候へとなだめけるを、しによろは口 をしらざるゆへに、ただ喧嘩の一同と心得て、けん [p.585b] をぬいてかの甚三郎の右の手にきずを付る、其後 甚三郎今は残所もなしとて、かの しによろをた ちまち討てすてければ、らすかる以下のもの共日 本人との喧嘩なりとさけびければ、黒船に有とあ らゆる南蛮人皆々陸にあがり、甚三郎を中に取 籠れば、平戸の武士町人にいたる迄、皆々一ツ成つ て、南蛮人を中にとり籠、散々にたたかひければ、 只ばうぜん(たる)ごとくなり、喧嘩は宮の前と云所なり しが、いやの崎と云所までみなおいうちにせられ、 しによろ、らすかる以下のものことごとく討捨ら れて、三ケ一ほど船ににげ乗らんとせし処に、平戸 のしゆごどの よりして使者をたてて、みなとをた のみて来りける船を、なさけなくせずる事、異国 の聞えも然べからず、ただ喧嘩を留まれ、しきりに すすめたらんものは、名字けつたいたるべしと使 を給りければ、其時日本人しりぞく、残たる南蛮人 のこらず手を負て船に乗けるが、其年は漸くおち おちあきないして、天河に帰り、次の年は横瀬浦と 云所に船を着る、かの所は大村殿と云人の知行な れば、主君にあんなひ云て其法をひろめければ、し [p.586a] たがはざりしものはなし、あるいは善根をなし、あ る時はじひを以、其宗たつとき道理を人に知らせ ける程に、すでに主君も其門に入たまふ、其後は子 細有て、福田と云所に舟を着る、其後いまの長崎に 船を着、次第々々に繁盛する也、

(「伴天連記」, 国書刊行会編纂『続々群書類従12』1970 (1907(明治40)), pp.585a--586a.)

 たぶんこれで全部です。 ちょっと長いんですけど、いちおう以下に概略を付けます:

[概略]  平戸に上陸した外国の船員シニヨロと、日本人とのあいだで 売買に関する諍いがあった。たまたまそこを通った 伊藤甚三郎が仲裁しようとしたが、シニヨロは伊藤を 喧嘩相手と勘違いして、伊藤に切り傷を負わせた。 伊藤が相手を切り捨てた。ラスカルが助けを呼ぶと、 黒船から南蛮人がゾロゾロと出てきて、伊藤を 取り囲んだ。すると平戸の武士や町人たちが伊藤に 加勢し、乱闘となった。喧嘩は宮の前という場所で 起こったが、いやの崎という場所まで追いかけながら、 シニヨロ、ラスカルらを討捨てた。残る1/3の船員らが 船に逃げ込もうとしたところ、平戸の守護様から 使者が来た。 「せっかく港に来てくれたのに、ひどいことするな! 異国の評判も悪くなるだろ!! 喧嘩はするな、 したら許さん!!!」‥残った南蛮人らは やがて天河に帰り、翌年は大村殿が知行をする 横瀬浦という場所に行った。そこでは布教もでき、 大村殿まで宗門に入られた。いろいろあってその後は 福田、長崎と港を替えたが、どんどん商売は繁盛した。
‥‥んー。バスクのバの字もないですね。

 バスクとかユイズに関するエピソードは、 司馬氏の完全なる創作なのか、あるいは 他の資料に元ネタがあるのか‥。

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南蛮人の死者は14名

 ネット上で見かけた他の資料に、以下のような記述があるのを見かけました:

 しかし事はこのままではおさまらなかった。幸いにも、宣教師追放にも拘らず南蛮船の平戸入港はつ づいていたが、永禄四年(1561)八月頃、平戸の七郎宮の前で数名のポルトガル人と一日本人との 間に諍いが発生したのである。原因は一枚のカンガ(粗い綿布)の取引について意見が対立、口論は乱 闘となった。知らせを受けてポルトガル船長フェルナン・ド・ソーサが助勢に駆けつけた。そこをたま たま通りかかった伊藤甚三郎という武士が一味と勘違いされて斬りつけられた。平戸藩士十数名も馳せ 参じた。結果、ポルトガル船長と十三人の船員が殺害された。

 この事件で殺人を犯した家臣らを隆信は厳しく処罰しなかった。ポルトガル側は大いに憤慨した。

(示車右甫(2006)『天草回廊記 (上)』文芸社, p.25)
「伴天連記」にはなかった情報が書かれています。口論の原因が「一枚のカンガ」であること、 船長の名前が「ソーサ」であること(これは小説と同じ。つまり司馬氏は「伴天連記」以外の 情報もちゃんと参照してるみたいです)、南蛮側の死者が船長も含めて14人であること。 そして日本側の家臣らへの処罰は「おかまいなし」かどうかは不明ながら、 処罰は厳しいものではなく、南蛮側がそれに不満を感じていたらしいこと。

 情報源は何なんだろう? ‥でも、いずれにせよ、日本側の資料をいくら見ても、 たぶん、ユイズがバスクだとか、日本人がバスクに似てるとの話だから それを見にきたとか、 そういう系の記述は、たぶん、ないと思うんですよね。

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結局、わからんです‥

 となると「日本人とバスク人は似ているらしい」という話は一体どこから来たのか? わかんないですね。たぶん司馬さんの完全なる創作ということではないと思うんですよ。 「当時、日本人の女は、陰裂が 横に切れているという評判があり、船乗り連中のなかにはわざわざそれを見るために 日本行きを志願する馬鹿も多い」(司馬2006「奇妙な剣客」 pp.292--293) ‥というのとたぶん同じで、どこかにそういうネタがあったので使ってみた、 という感じだろうとは思うんですけど。ちょっとわからんです。


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