[前] オウム真理教(1) 絶対服従 |
さて。ここで述べられているところの「グル」の位置付けと、前に見てみた 『マヌ』における「グル」の位置付け とを比較して みると、けっこう似てるようでいて違っているようなところがないこともないですね。 『マヌ』の場合、グルは「シュルティという絶対的な権威を授けてくれる人」 「ブラフマンの現身」ということなので、 「グル」は「究極的真理」と「弟子(究極的真理を目指そうとする者)」の 中間点に位置する、いわば媒介者 このような役割を担っていると見てよさそうです。
いっぽうのオウムでは 「グルに対する絶対的な帰依」「グルが解き明かした真理の教え」 「タントラヴァジラヤーナは、グルの意思の実践がすべてだ」といった 感じで、まずはじめにグルという権威が存在し、その方がお説きになられる 事項だから真理、といった位置付けがなされているような印象を受けます。 『マヌ』とは「真理」と「グル」の主従関係が逆転してるというか何というか。
そういう点では、オウム真理教的な「グル」の内容というのは、 チベット仏教的な文脈での「グル」(བླ་ མ་; bla ma)に 近い‥というか、それを参考にしたんだろうなとは思います。実際、 チベット仏教においては「三宝」(仏・法・僧)を綜合し象徴するものこそ師である、 それゆえ師への奉仕だけが最重要となる[多田等観師がみるラマ]という分析もありますから‥。
なので結論としては、なんでああいう人を「グル」だと信じこんでしまったの? ‥といったあたりに尽きてしまいますよね。
[Table of Contents]当時、私がよくわからなかったことの一つに「空中浮揚」がありました。
私の印象では オウム真理教はこの「空中浮揚」を非常に大事にしていて、 麻原が真実の「グル」であることのアピールとして、何かにつけてこの 空中浮揚の写真を使っていました。‥けど。あの、あやしげな空中浮揚の写真、 百歩譲ってそれが本当だったとしても、それが何故に真実の「グル」の証明になるのか、 さっぱりわからないですよね。
仏教の伝統では、修行者が修行を重なると「六神通」なるものを徐々に身に付け、 最終的に「さとり」に達することになってます。そして「空中浮揚」がその最初の 「リッディ」だと考えれば、「さとり」に到達した人は「空中浮揚」できる。 ‥これはわかるんですよ。でも「リッディ」の修得は「さとり」への途中経過にしか 過ぎないわけですから 「空中浮揚」は「さとり」に到達した証拠にならない んですよ。つか「外道」でも修行すれば「リッディ」くらいなら身に付く (けど最終目的の「さとり」には到達できない)、 そんな感じになってたはずです[密教修行に戒律は不可欠]。
ですから「空中浮揚」したとして、だから何?? ‥ということが、 私はずっと不思議だったんですけど。
この疑問、高山2006を読んだらなんか腑に落ちました。どう納得したかというと‥
そして同書ではさらに『トワイライトゾーン』誌(1985夏)へのコメントで麻原が
それと「完璧な超能力者たちの国」、それでハルマゲドンを生き残る‥という話になると、 映画「幻魔大戦」(1983)が、 私の場合、どうしても頭に浮かんできてしまいますけど。 やっぱり、あのままのイメージなんですかね。
[Table of Contents]んで。麻原における「さとり」とは超能力、それも非常にわかりやすいタイプのもので 具体的には空中浮揚とかの、いわゆる 「ネンリキー」なもの だとすると。たぶん一般人がイメージする「さとり」を求めて入信した弟子たちとの 齟齬があって、それがあのような不幸な結果になってしまったのでは? ‥なんて 思ったりもしたんですけど。でも、そうでもないのかなー。 「空中浮揚」のあたりから信者が急増したみたいですし、「空中浮揚」で 入信しようと思ってしまう人たちってやっぱ、 「空中浮揚」つまり「ネンリキー」に引かれて入信したってことですよね基本。 そして、それってつまり、弟子たちも「ネンリキー」願望が強かったということですよね。 んー。
じつはこの点については、当時のオウム真理教信者たちの証言からも確認することができます。 [ オウム真理教公式サイトの「わたしは見た! これが尊師の超越神力」(1999/5まで) ] を 見ると、
(でも「まずは神変をおこして信仰心を生じさせ、のち真実に気付かせる」という、 大昔からある宗教伝道の王道パターンという理解も可能か? ‥でも、そういう方法って、 現代でも有効なのか??)
タブーすぎるトンデモ本の世界 [ と学会 ] |
この点について、別の本でもこんな感じに書いてるのを見つけましたのでメモ:
そしてたぶん、麻原は、すくなくとも「オウム真理教」創設以前は、高山2006が 「柔道二段をとるまで にいたった猛稽古のときのように」と言っているように、 超能力を求めた修行をガムシャラにやっていたんだろうと妄想できます。 この修行によって麻原が独自にたどり着いた何らかの神秘体験が、 たぶん 今もつづく元信者たちの「麻原信仰」の 原動力になっているんでしょう。死刑囚となった井上嘉浩によれば:
また やはり同じく死刑囚となった中川智正も:
いちおう、ちょっと見てみたのは以下のへんです。
うーん。
古典チベット的なグルをモデルにした場合、 グルが暴走しちゃうと歯止めが効かなくなるのは確かですよね。
でも麻原という人は、なんか私の勝手な印象では、それほど 完成した人物とも思えない感じですから。となると、この手のものでありがちな 「騙されたと思って飛び込んでみたら、やっぱり騙されてた」という感じ‥‥ なのかなー、と疑問が残らないこともありません。
けどなー。どうやら麻原は かなり早い時期から暴力的に世界を変える指向を 持っていたことは確かみたいですから、それを考えると、弟子たちはやっぱ 素朴すぎたのかなー。素朴すぎて 自称「グル」の子供っぽい素朴で暴力的な欲望に簡単に感化されちゃって、 のみらなず自称「グル」のケツまで押す感じになっちゃって、 それで一緒に "suicide machine"に乗ってしまったんですかね。 ‥となると「古典チベット的なグルをモデルにしたから グルの暴走で歯止めがきかない」というのはちょっと違うのかなー。
[Table of Contents]でもやっぱ、あれほど高学歴でバカではないはずの幹部連中が、 何故 あの麻原と地獄の底まで一緒に突き進んでしまったのか? ‥この点について高山2006は、 こんな感じのことも紹介しています:
オウム信者にとって、いわゆる「グル」と対極にある存在といえば、 「凡夫外道」だと思うんですけど。そちらについては [ 現代日本における外道ども:: オウム真理教(1997) ] をどうぞ。
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