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餓鬼について

[佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼經]に 端を発して作成している「めも」です。


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インド仏典にみる餓鬼

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望仏を見てみよう!

仏典における「餓鬼」を知るため、手っ取り早く「望月仏教大辞典」の「餓鬼」の項を 参照しました(望月1958(増訂再版)だと p.403; 1916版 p.238)。

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祭祀なき祖霊か

訳して鬼と云ふは、支那にて死者の霊を 鬼と名づくるに取るなり。又或は梵語卑帝梨pitṛを訳 して鬼となす。又卑帝利、卑帝黎、卑帝梨耶に作る。 父親の義なり。是れ蓋し印度にては嗣子なくして父祖 の霊を祀る能はざる時は、其の霊は鬼界に堕して甚だ しき苦悩を受くと信ぜられたるに由るなり。之を餓鬼 と称するは祭祀せられざる幽魂の義をあらはすの意な り。五道の一、六道の一。鬼道、鬼趣、又は餓鬼道と 称す。 (望月1958, p.403)
まあ、似てるよなー、とは思ってましたけど。 餓鬼 preta を、 サンスクリット語で父親とか祖先を意味する単語 pitṛ と関係させて 説明してます。‥いいのか? よくわかんないですけど。まさかここで
「是れ蓋し印度にては嗣子なくして父祖 の霊を祀る能はざる時は、其の霊は鬼界に堕して甚だ しき苦悩を受くと信ぜられたるに由るなり。之を餓鬼 と称するは祭祀せられざる幽魂の義をあらはすの意なり」
こんな説明を見るとは意外な展開でした。 これって 『マハーバーラタ』に出てくる「祭祀されないせいで罪人のように 頭を下にして洞穴でぶらさがっているジャラトカールの祖霊たち」の話から 「うらんばな→盂蘭盆」につながる話が意識されてる気がしますけど、 それがここに出てくるか‥。まあ日本では施餓鬼とお盆はセットなことが多いですから、 この両方を合体させる発想はまあ普通なんでしょうかね。そしてインドでも そうなんですかね?

 でも確かにジャラトカール仙の祖霊たちの例のように、 子孫による祭祀が行われないため この世に止まらざるをえない祖霊たちこそが 「餓鬼」の原型である‥という解釈は、 「人が死ねば 形のない幽霊=プレータ(preta)になる。 しかし葬送儀礼をちゃんと行うことにより、人は「祖霊」となりプレータを脱する」という現代ヒンドゥー教における考え方と重なりますね。 これこそインド的な preta (餓鬼) のあり方なんでしょうか。

 あとここで気になるのは「其の霊は鬼界に堕して甚だ しき苦悩を受くと信ぜられたる」と書かれてる点ですかね。 「鬼界」ってたぶん「餓鬼世界」だと思うんですけど。 インド仏教では、この世界以外の場所に餓鬼の世界があったりするのかな???

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餓鬼どもは閻魔王の配下?

ということで望仏をさらに見てみると、こんなのが紹介されてます:

云何鬼道名曰閃多閻摩羅。王名閃多 故其生與王同類故名閃多。復説此道與餘 道往還。善惡相通故名閃多。 [ 佛説立世阿毘曇論 (大正1644) pp.32:197c--32:198a. ]
[大雑把訳] 鬼道(餓鬼道)はなぜ「閃多」(望仏では「閉多」。 たしかに preta の音写なら「閉多」が「へいた」と読めるので preta に近いですよね。 「閃多」はどうしても「せんた」と読みたくなりますし、 それだと preta と近い気がしないんですけど。でも文脈からすれば「閃多」はやっぱ preta になる と思うんですけど‥)というのか。 閻摩羅王が閃多と呼ばれるせいである。王と同類のものども故、閃多と呼ばれるのだ。 この道は他の五道と往還するものであり、善悪が相通じるから閃多と呼ばれる。 (最後の一文、かなり あやふや‥)

 さらに:

問何故彼趣名閉戻多。答施設論説。如 今時鬼世界王名琰*魔。如是劫初時有鬼 世界王名粃多。是故往彼生彼諸有情類 皆名閉戻多。即是粃多界中所有義。從是以 後皆立此名。 [ 阿毘達磨大毘婆沙論 (大正1545) p.27:867a) ]
[大雑把訳] なぜその趣(鬼趣=餓鬼道)を「閉戻多」(へいれいた(?) = preta)と呼ぶか。施設論によれば、 いまは鬼世界王は「琰魔」(えんま)という名だが、 劫初の頃の鬼世界王は「粃多」(ひた(?) = pita(?) = pitṛ(?))であった。 だから、そこに行き・生まれる者ども皆を閉戻多と呼んだのだ。 粃多の世界に所属してる、という意味だ。それ以降、この語で呼ばれてる。

 つまり。現代の、すくなくとも日本では閻魔王といえば「地獄の王」という イメージがありますけど。インド仏教では閻魔王はあくまで「亡者の王」であり、 亡者=餓鬼どもに君臨しているから、だから餓鬼世界におられる、 そういうことなんですかね。実際、上の引用をふまえた望仏の解説に曰:

此の中、閉多若しくは粃多と 云ふは、是れ実に人間最初の死者にして、劫初に冥土の 路を開きたる閻魔王の一名なり。即ち吠陀時代の神話 に現れたるヤマ王 yama-rāja 是なり。但し粃多は巴 梨語pitāの音訳にして、父又は祖父の義を有しpetaは 即ち粃多所有の義にして、梵語には之をpretāḥ(preta の体格複数)と云ふ。前の婆沙の文に、粃多界所有の義 なるが故に閉戻多と名づくと云ふはその意なり。故に 諸経論に多く閻魔王界yama-lokaを餓鬼の本住所とな し、或は之を薛茘多界preta-loka,餓鬼世界等と称し、 其の主を閻魔王となせり。 (望月1958, p.403)
閻魔王は「人間最初の死者」と書いてありますね。知りませんでした。へー。

 ‥というのはさておき。インド仏教の論書系では、餓鬼世界=死者たちの世界=閻魔王世界、 といった感じの設定になっているのが、まあ一般的、というのは間違いなさそうですね。へー。

 そしてそれと上で あやふやに紹介した以下:

「復説此道與餘道往還。善惡相通故名閃多。 (この道は他の五道と往還するものであり、善悪が相通じるから閃多と呼ばれる)」 [ 佛説立世阿毘曇論 (大正1644) p.32:198a. ]
これを思い出すとつまり、死者はまず餓鬼世界=閻魔王世界に行き、そして閻魔王と会うなりして 行先が決まったら餓鬼世界から六道の他の世界に行くとか、そういう設定なのかな? ‥いや、 そういう解釈はちょっと先走りすぎですね(^_^;
閻魔王の所在地については [ 閻魔王はどこに? ] もどうぞ

 それと、 望仏でも書かれていた漢字の「薛茘多 (preta)」については [ こちら ] をどうぞ。独自の展開を見せてます。

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